光男たち兄弟と父が集まった本郷坂上の中村金太郎工場は焼けなかったが、坂下方面にあたる元町二丁目は焼けた。ここは丸尾キミの一家が住んでいたのだが、焼けたため巣鴨で眼鏡屋をやっていた伝九郎叔父宅にやっかいになっていた。
初吉(長男)は震災後、人夫に出ており、芳造(次兄)はバケツにすいとんをこしらえ田端駅で”お椀一杯五銭”の商売をした。
関東大震災で家が倒壊、焼失などで縁者や親類を頼って東京 . . . 本文を読む
震災で上野公園から歩き、疲れ果て根津の藍染橋に座り込んでしまった13歳辰雄のその後。
彼は流れてくる避難民に本郷追分への道を聞いた。
どうやら本郷台の延焼はくいとめられ、その道順も意外に近いことが確かめられた。
目印は 「本郷の兼安までは江戸の内」と川柳に詠われた小間物屋のカネヤス。
ここから帝大付近の本郷3~4丁目、駒込西片町あたり一帯が高台で、風向きが変り延焼を免れた。
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埼玉・川口での朝鮮人暴動にまつわる話
この話はジッタンの妻佳子の父の古谷徳次(昭和64年 死去)さんからも聞いた。
徳次さんは当時、荒川の鉄橋を越えた埼玉・川口の駄菓子屋の実家から近くの永時鋳工所に通っていた。当時、20歳。
「地震後いくらもたたないうちに、朝鮮人が井戸へ毒をしかけた。ということで、誰言うともなしに、鉈ある人は鉈、日本刀のある人は日本刀、そう . . . 本文を読む
「次の日(九月三日)から朝鮮人はかたっぱしからつかまった。
朝鮮人らしい顔つきだというような理屈で日本人もやられたようだ。伝九郎叔父さんも自警団
に捕まって、みんなで「違う、違う日本人だ」と言って、ようよう逃げたという。
高手小手も縛り上げられた印半天の朝鮮人が、家の前を通る。
五十人くらいの竹槍や、棍棒をもった殺気だった自警団の人たちが、その後から . . . 本文を読む
本所、深川一帯は、家屋が密集し、道幅も極端に狭い。隅田川から東側の倒壊家屋は、全市の2二割から3割に達したと言われる。そこに火の手が上がれば、逃げ場がない。
丸尾キミは、その中を避難民とともに走った。
川村一家と近所の人たちは金町にある「川村」材木店の長男の家へ避難することになった。
真っ赤に燃えたトタン屋根が飛んでくる。
熱風にあおられて、反り . . . 本文を読む
辰雄もまた震災の夜をこの上野で迎えていた。「夕刻まで、続々と避難者の群れが続く。ある家族は全員が腰縄で結び合ってはぐれないようにしながら駆けてゆく。
もっと混雑し始めたら、かえって、その縄が邪魔になって他人に引きちぎられるだろうと私は思った。
私は子供心(注 13歳)にも、阿部川町は全滅すると予測した。
今のうちに逃げようと、父松次郎にすすめたが、父はここだけは助 . . . 本文を読む
全壊に近い津川理髪店から脱出した時、光男は手早く剃刀をケースに納めていた。津川の親方から分配金と称する店の売り上げ金が渡される。「この先、どうなるかわからぬから」とりあえず、というわけだ。だんだんと騒ぎが大きくなる。
栄久町(注 現在の台東区浅草寿町)は、森下町と隣接しているが、その先は浅草となる。
「十二階が折れている」という話し声を聞いて光男は、その方面へ駆 . . . 本文を読む
ぐらりときた時の体験者談や回想記を探せばたくさんある。二人に語ってもらう。一人は若い詩人の西条八十。西条はこの時、市内のある理髪店で髪を刈ってもらっていた。
「やっと外に出ると、理髪店の職人が氷屋の縁台の下から『先生 おはいんなさい』としきりによびかけた。
けれども、まさか、詩人が氷屋の縁台の下で死んだとあっては、体裁もよろしくないと思いとどまった」(西条八十 他 「噫東 . . . 本文を読む
■■ 津川店つぶれる
浅草の津川理髪店で働く職人はみんな年季が明け、光男(19歳 ジッタンの父)だけが見習いということで勤めていた。
剃刀を持ち、洗い場で蒸しタオルを替える。揺れた。
「地震だな」と思って振り返ると、店の中には客も主人もいない。
「ちえっ だらしねえなあ。たかが地震・・」と思った瞬間、店の壁が外れる。「いけねえっ」と思ったときには外へ飛び出している。
瓦 . . . 本文を読む
来る日も来る日もウサギの鼻孔に卵の白身を流し入れて、自己免疫制止力の実験をしていた東大医学部助手の多田が1971年、抑制T細胞を発見した。ノーベル賞ものの発見だった。同じ年、イラストレーター南伸坊は美学校で赤瀬川原平から宮武外骨の講義を受けていた。 . . . 本文を読む
大正12年9月1日。この日、東京では朝から強い風に混じった雨がふっていたが止んで、いつものきびしい残暑に戻った。
東京市民が昼食のしたくに追われていた午前11時58分44秒。
激しい地鳴りとともに上下振動が関東地方を襲った。
マグニチュード7.9。関東大震災の発生である。
東京市の火災は134か所に及び死者は9万1344人、全壊焼失46万4909戸といわれる。(読売 . . . 本文を読む
筆者は四十代の気鋭の神戸大助教授。
植民地支配をめぐる日朝の「わるいことをした」「いいこともした」の歴史観や論争がいまだに繰り返されている議論は無駄だからやめろと提唱。この議論の原因は日朝が植民地支配の最終章をともに栄えある形で迎えられず、「和解の儀式」が未完のままに今日を迎えた関係にあると指摘している。 . . . 本文を読む
谷沢は論語を雑書として読むという。谷沢、渡部のふたりの人生体験をあてて考えた「論語」箴言集であり、テーマ別のふたりの軽いコラム集ともいえる。それぞれんの人生体験からこの古典を身近な読み物としたいかにもPHP的書冊。
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