ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【関東平野の隠れキリシタン】川島 恂二 さきたま出版会

2007年06月17日 | 2007 読後の独語
【関東平野の隠れキリシタン】川島 恂二 さきたま出版会
 図書館や本屋の書棚で、まるで手招きをしているようにして呼び寄せている本と、読みたくなって捜し求めたい本とがある。
 今回の場合は後者のケースといえる。
 
 今春、桜名所の権現堂の花見に自転車ででかけた折、道に迷っているうちにでキリシタン信徒が刻んだというマリア地蔵に出会った。
 九州や長崎ならいざ知らず、江戸城下のお膝元の幸手宿場町から「なぜ隠れ切支丹の石像があったんだ。信徒がいたのか」という関心が生まれた。
 後日、幸手の市史編纂室に、この由来を知る文献はないかと問い合わせ、紹介されたのがこの「関東の隠れキリシタン」だった。
 厚さ10センチ、1400頁を超える内容は写真資料がふんだんに使われている。
 著者の川島さんはお元気でおられるなら今年90歳を迎える古河市の眼科医で同時に医史学と郷土史学に通じた人だ。
 文政3年に書かれた小出重固「古河志」の記録から寛政年間にはまだ5人の信徒がいたことを知った川島は以後、40年近くの歳月をかけて古河から関東全域に足を運びキシリタンの探訪にあてたという。
「古河志」には「一党邪法受け継ぎしといふこともなく、名目あるのみ」と当時の状況が述べられ、ただ「寛政の初めにいたり、わずか二、三軒残り居り」「猶ほ減じて文政の中頃となればいささかの名残もなく失せ果てたる」 と記されている。
 秀吉の小田原城攻めの際、埼玉や茨城の各城も同時に攻められた。
時に、古河城主妻女の足利島子は血筋の断絶を憂い生贄の形で大阪城に同行し秀吉の想い人になったが島子はここで古キリシタンに入信した。
この影響もあって古河公方の残党などは、近くにある柳生の原野を拓いて一村を形成し宗門を残した。
江戸入りした家康にとって石高増産は次の天下を狙うための喫緊の課題であり、八溝や渡良瀬周辺の山系の鉱山、利根川流域沿いの新田開発は急がなければならない。
 土井利勝が入城する前の永井尚政という古河城主治世下でキリシタン信徒には厳罰が下され、信仰を捨てない92人は下宮村で磔刑とされた。
 転んだ面々は坂東太郎一帯の沼沢地新田開発の苦役とされた。
 もっとも西国の各地方からキリシタン信徒が関東入りしたのは禁教布令以前にもあったらしい。
 鎖国以前には西国にキリシタン大名も多く、特に豊臣側の浪士残党も関東に流れ、各地で帰農した。
 このあたりは慶喜に随行して静岡の荒地を開墾、茶畑を作った維新の歴史に似ている。
 ただ、駿府にいた家康が発した禁教以後は彼らへの扱いは峻烈を極めた。
キリシタン信徒は士農工商、以下の身分とされ、らい病者と同じく最下層の存在として扱われ、最後は「畜生塚」に葬られた。
 信徒たちは利根川流域の治水事業や新田開発に「生かさず、殺さず」の労働力として利用された。
 私が住んでいる近くの古河、北川辺、五霞、幸手、杉戸、宮代、関宿などにも、点々とした隠れキリシタンの足跡をこの本からたどることができた。
 墓石の年号に「天」が刻まれ「、」や蛇クルスなどの彫り跡は受難に耐え昇天を願うかれらの刻印だったことを知る。
私が出会った権現堂の「マリア地蔵」もそのひとつと言える。
 明治10年、埼玉で一番早く誕生した和戸教会の裏面史にも連綿として伝わってきた殉教の流れがあることも確認できた。
 読書中、メモだけでも大学ノート2冊分、本が分厚くてコピーにとれずデジカメに収めた頁も多かったが、読後には久々の充実感が残った。 (2007年 6月読了)


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2 コメント

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関東平野の隠れ切支丹 (とみやま)
2007-11-10 13:17:32
私も目下悪戦苦闘中ですが、図書館の相互貸借史料ゆえ2週間でまだやっと1/3。クリスチャンでない川島氏がここまでやれたエネルギー源に想いをはせるばかりです。
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千姫と千代姫 (北陸の隠れイエズス会士)
2018-08-23 20:40:22
「信長はなぜ葬られたのか」(安部龍太郎著 2018年7月)
読みましたが、驚くべき事実をいくつか知らされました。
そのうちのひとつが「この書」からの情報でした。
 千姫と千代姫。
東慶寺に保存されているイエズス会の標章の入った聖餅箱は千姫から千代姫に手渡されたものだとの記述。
常総市の弘教寺にある千姫と千代姫との別れの場面を描いた絵。
東京小石川傳通院にある千姫の墓の台座に刻まれた十字。
 千姫(晩年は天樹院)は、徳川秀忠の娘で、1603年に7才で豊臣秀頼の正室に。1615年の大坂夏の陣のとき、秀頼は自害、18歳の千姫は大坂城を脱出し江戸へ、この時、千姫は祖父家康に懇願して秀頼の娘千代姫(天秀尼)の命を助けた。千代姫は鎌倉の東慶寺に尼として預けられた。
  家康の孫娘、秀忠の娘で、家光の姉である千姫がイエズス会士だったことがほぼ確実であった。秀吉の孫娘千代姫もまた。
 ここに安部氏は、1614、15の大阪冬の陣、夏の陣にははただならぬ意味合いがあることになると、著書のなかで述べている。
 北陸にはこの川島氏の大著を保有する図書館がみつからないのでこまっています。どなたかご存知の方いらっしゃいませんでしょうか。
 
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