ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【忘却からの帰還】  【惣角流浪】 今野 敏 集英社文庫

2013年04月20日 | 〔忘却からの帰還〕
【惣角流浪】 今野 敏 集英社文庫

兄夫婦や娘家族と今夏(1982年)、会津へ行った。
翌日、別行動をとって兄夫婦と飯盛山へ上った。
碑を読んで女房にミニ解説をしていると、ボランティアらしい解説員がやってきたので、しばし雑談。
「西郷頼母と隆盛に姓以外のどのような関係があったのか?武田惣角という男と西郷従道の関係は事実か。講道館に入門した西郷四郎はその後、どうしたのか。」
中年のボランティアらしい人は、残念ながら惣角のことを知らず、頼母の武道家としての一面も知っていなかった。
西郷頼母、西郷四郎、西郷従道の3人の西郷姓と合気道の始祖といわれる武田惣角の接点はなにか、どこまでが事実か、頭の隅でもやもやしていたことに、読んだこの本が回答を与えてくれた。

 秀忠の子供で会津藩を継いだ保科正之家に武田家の小具足の武道が伝わり、「御式内」という技が完成された。
その師範役をつとめたのが西郷頼母。
武田の父は会津戦争で西郷頼母の指揮下で働いたという。
頼母は戊辰戦争のあと、函館戦争で闘ったが隆盛によって減刑された。(この本では函館戦争のことが数行で書かれ、隆盛の減刑措置とあるが肝心な1所が省略されていて不満。)
減刑で感謝した西郷頼母は隆盛に自子「有サト」を預ける。

隆盛から西郷頼母への返信が昭和51年、記念展で公開されたのだから2人には親密な関係があったことは事実。

頼母は西南の役に弟子の武田惣角を参戦するように指示し、自らは謀反加担の疑いを持たれ会津の神官を解かれた。
だが、明治13年(1880)、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となると、頼母は禰宜となっている。

西郷四郎は頼母の養子だが、彼にも「御式内」を基とした大東流の技を教えたのは間違いあるまい。
この四郎が講道館「姿三四郎」のモデルともなって、彼の「ヤマアラシ」には、合気の武道が取り入れられていたことは想像に難くない。

この本では触れられていなかったが武田惣角が西郷従道のボディガードを一時勤めたという「隆慶一郎」の指摘は隆盛、西郷頼母の関係から必然とも言える。

武田惣角と同年生まれで古武術から柔道を編み出した嘉納治五郎と武田惣角はともに維新時には7歳の幼年。
爾来、激動の時代の変遷を見ていたと思う。

興味があった題材だけに面白く読めた。
市塵に埋もれていく史話の一端に巡り合えたのは幸せだった。
だから読書は面白い。(2012年 秋 読了)


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この本を読んでから12年の歳月が流れてる。
今、欠かさず大河ドラマ「八重の桜」を見ているが西田扮する西郷頼母のイメージとは、どうも読後感と重なっては来ない。
でも、面白い番組だ。
あの頃や70年代の幕末扱いのドラマ番組は、薩長組が正義の主役だった気がする。

こたび福島会津藩によくぞスポットをあててくれたと思う。
来月末、カミさんと再び、会津を再び巡る予定だ。

朝、ケーン、ケーンと雉の鳴く声がする。
畑に出ると雌と子を連れ3匹で青菜を啄ばんでいる。
都会とは思わぬがそれほどの片田舎とも思えない場所ではじめて出合った光景だ。






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1 コメント

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武田惣角 (池月映)
2013-04-27 08:47:34
 生家の会津ではまったく評価されておりませんでした。惣角は農家生まれで、戊辰戦争後、同居人となった藩主護衛役の御供番(武芸に優れ小姓と同じ職場)から御式内・武芸十八般を学び、孫娘コンが惣角の妻になった。
 合気は気を導入したもので、密教・修験道・易学を修行し、唯一教えられるのが、隣村の易者でした。
 作年、長年西郷頼母を研究した専門家が、大東流は頼母と惣角の創作で、西郷四郎の山嵐は無関係と発表しております。
 証拠として、明治の戸籍、妻の子孫の伝記、小野派一刀流の額が判明しております。「合気の創始者武田惣角」著者より。
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