ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕光男終戦日記(12) 昭和21年3月

2007年04月03日 | 昭和家庭史
3月2日
新円切替(注1)で工場は臨休。店は暇。午前中ドックへ行き一匹。夕方鉄橋でヒガイ二匹(注2)。

3月7日
夜、家中で”煉瓦女工”(注3)を見に行く。
今は「過去」となった日本下層社会の一つの姿である。久しぶりで、面白かった。日本の「どん底」である。但し「ルカ」がゐない。だから「救い」が重くて、後味が暗いのだ。

3月8日
一日中、寒風。
夜に入って益々烈し。
寒さ物凄し。

3月10日
日曜。朝ドックへ行ったが一匹も釣れず。
一日、店をやる。今日から行為税廃止。だが当分現行料金でやることに決議。三十七円也。

3月12日
常陽銀行で、財産申告を済ます。
3月3日現在

特殊預金 二千円也
國債貯金 三十六円
郵便貯金光 千三百四十一円八十八銭
同   光 八十円也
同   君 百五十二円六十二銭
同   純 百四十九円四十四銭
同   英 二百八円七十六銭
同   君 約百円

現金 六百三十六円

合計 四千七百〇四円七十銭也

3月10日
朝、畠の手入れをする。新調の鍬、とても具合良し。一うね深く掘り、堆肥をやる。
久しぶりの労働で、とても疲れて了って、八時半頃迄寝て了ふ、
○ 午前 等覚寺で種痘をやって貰ふ。

3月15日
昨日と同様暖かい。
畠の手入、今日もやる。大分慣れたのか、大して疲れない。

3月17日
店と工場休み。
朝から雪が降る。午前中、研ぎ物をしたり雑用をする。
午後から雪がやんだので、鉄橋の下で釣り、ヒガイ、小鮒などを釣る。
夜、家中で銀映座で”真実一路”を見る。

3月18日
工場の創立記念日。晝飯が出る。
牡蠣のフライ、酢のもの、吸い物、刺身等。電熱器、安全器無い爲、まだ使用出来ず。
癪に障る次第なり。

3月24日
日曜、風。朝と午後、ドックへ行ったが一匹も釣れず。
○ 罹災者用として、木綿のズボン下一枚配給。金、四円也。
畠はふだん草と、油菜をまく。

3月25日
酸素入替の時、右手中指を負傷する。大難が小難の形でまあ良かった。
以後、よくよく注意しよう。

○この二、三日「キツネバネ」に就いて人知れぬ苦心と憂鬱を味わった。結局、「ウケ」の高さが重大な関係を持つことを発見した。
実に夜が明けた感じだ。

店の電燈線今日、一つ増設する。

○病兄へ今日見舞金五十円送る。

3月27日
夜、家中で霞浦劇場へ行き”粋な風来坊”を見る。帰途寒し。

3月28日
家賃を今月から30円にして持って行く。自発的に値上げして行ったのは、俺位なものだらう。でも、かうして、一戸建ての家で兎も角商買してゐられるのだから、三十円の価値はあると思ふ。
3月30日
朝、霞ヶ浦へ釣りに行ったが間もなく大風となり帰る。夕方まで店をやる。是で、日曜を三回続けて棒にふった訳だ。
今日の新聞に依れば、理髪業そのた現金商買は、封鎖預金払出は出来ないとの事、又、罹災者一人千円の拂出しもいけないとの事。
して見ると、是から工場の五百円と、店の収入約四百円---確実な所----九百円で何でも彼でも生活せねばならぬ。
無駄遣いは一切出来ぬ。兄より返事来る。入院は止めにした由。


光男が描いたいた昭和20年代の土浦、櫻川付近のスケッチ。


■■ ジッタン・メモ

(注1)新円狂騒曲

21年2月に金融緊急措置令が出された。
「新円」ということばが歴史上はじめて登場した。

「この緊急措置令で、10円以上のお札は全部封鎖、つまり銀行か郵便局に預け入れとなり、毎月引き出せる預金は世帯主が300円、家族は一人につき100円だけということになった。会社からもらう給料のうち500円までは新円、それ以上は封鎖小切手で支払われるので、独身者は月に800円しか使えぬことになった。」

2月25日より、新円、旧円の交換開始、3月3日以降旧円の流通禁止となる。20日、新円の印刷が間に合わず、旧券に証紙を添付する緊急公布を施行。
                      「物価の世相100年」岩崎 爾郎 読売新聞社刊より

(注2)ヒガイ
ヒガイは、漢字で書くと「鰉」と書く。明治天のが好きな魚だったことからでサカナヘンに「皇」の字と書くのだと光男は子供たちに教えていた。調べて見ると正しい。
霞ヶ浦に移入された種は「ビワヒガイ」という種で、最大20cm程に成長。水産資源として琵琶湖よりの移入は大正6年。
釣りの場合、強い引き味が楽しめる魚で、食味は美味。
秋から冬にかけて釣り貯めし甘露煮にすると、我が家では結構なお頭つき正月の一品となっていた。

(注3)煉瓦女工
製作=南旺映画 配給=松竹
1946.02.14 製作は1940年
この映画は1940年に作られていたが、検閲で公開不許可になって6年後の昭和21年に上映された。
 徳川無声や先生役に信欣三、宇野重吉、韓国人の父親に滝沢修を配している。

3月当時の世相
青空食堂
東京・目黒駅前ヤミ市の相場----串カツ18円、ビフテキ14円、カキフライ10円、五目ソバ5円、コーヒー5円
東京の露天・ヤミ市は、1月8日現在、215ヶ所、組員5万5554人。毎月平均1万7千店、明らかに工場からの横流れ品が堂々と売られ、横浜の南京市場街などには、毎日数百俵の米が流入、天どん20円、肉どん20円で売られていた。

地下道ホテル
日本交通公社では東京駅の乗車口と丸ビルを結ぶ地下道を利用して簡易ホテルをつくり、3月20日から開店、一般旅客に開放する。
この地下道は長さ61メートル、幅7.4メートル、これを二等寝台車のように左右、上下二段の洋式に仕切って左に婦人用26床、右に男子用36床、合計62ベット。宿泊料は上下段とも昼夜10円で終電車に間にあわなかった旅客や翌朝の一番列車などで出発する人たちを優先的に収容するが、食堂その他の給食施設はない。
                     (読売新聞、昭和21年3月20日)

餓死
春--  食糧難で京浜地方の餓死者、1300人

その他
3・11 東京六大学野球の復活が決定
3・18 俳優座、東劇で第一回公演。ゴーゴリーの「検察官」
        (昭和・平成 家庭年表史 下川 耿史 家庭総合研究所編纂         河出書房新社)











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