ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 光男編 (4) 同人誌群は昭和文学の源流

2005年12月21日 | 昭和家庭史
「見渡せば、小説家志願兵は、その数において沢山である。(中略)だが文壇に酸素を供給しうるものは、投書家でもない。諸大家の碌々たる書生でもない。希望をつなぐに足るは、今日の青年抵抗派、同人雑誌の作家である。」これは高見順の「昭和文学盛衰史」の中で語られている神崎清のことばである。この「盛衰史」の記録によると大正15年4月の全国の同人雑誌は164誌、同人関係者は1140人を数えた。 この流れ . . . 本文を読む

昭和家庭史 光男編(3) 光男、尾久で独立開業 同人誌「嘴」に参加

2005年12月16日 | 昭和家庭史
 光男が独立開業を志した大正15年。師走も押しつまって天皇が死去、直ちに皇太子裕仁が位を継ぎ、昭和と改元した。昭和元年は、わずか1週間 で終わった。この「昭和」元号は、中国の古書「書経」の「百姓照明 協和万邦」から選ばれた。光男が店を借りた荒川区尾久は、当時急速に商業の街として発展していた。 もともとこの「尾久」とは武蔵国豊島郡の奥の村落の「奥」が「尾久」と変じたものらしい。 . . . 本文を読む

昭和家庭史 光男編(2) 「面影橋」店への住み込み

2005年12月13日 | 昭和家庭史
3日ぐらい通った床屋から光男が帰ろうとすると、店の内弟子が追いかけてきた。その日、光男は仕事着をうっかりしてしまい、店のご内儀のエプロンを借りて 仕事をした。内弟子も親方も不釣合いな姿を最初のうちは笑っていたが、やがて光男の腕に舌を巻く。顔ずりが巧みで、仕事が早い。内弟子は親方よりも光男の 腕は上でもあるように感じられ、できれば「はまって」(住み込んでの符牒)もらって仕事をしてもらいたい、とい . . . 本文を読む

昭和家庭史 光男編(1) 帰京 ヤドという斡旋所

2005年12月10日 | 昭和家庭史
関東大震災で焼けた栄久町の津川理髪店。そばに銭湯があり、浅草馬道の数珠屋の「ユーコウ」こと田端雄吉と、塗師屋に勤める大塚という2人の青年がよく 通っていた。2人は震災で疎開した光男の消息を知り、名古屋の光男に手紙をよこした。折れ曲がった十二階が工兵隊の手で爆破されたことや、仲見世の復興ぶ り、六区に剣劇劇団が人気になっていることなどを光男に伝え、帰京をすすめる。  こうなる . . . 本文を読む

昭和家庭史 キミ編(6) 初恋は、淡雪にも似て

2005年12月08日 | 昭和家庭史
「人前で話せば、すぐ赤くなる。じれったいほどモジモジするおとなしい姉さん」 弟の光の懐旧談からのキミさん像。この点は後年、夫と生別し以後「後家のがんばり」を見てきたジッタンの印象とは大分違う。だが、当時長女としてしっかりしなければならない事情と、都会ずれしない、純真な18歳であったようだ。 キミはよく話してくれる麻生にかなりの好意をもったが、無学、貧しい環境に育った側から見れば眩しい人 . . . 本文を読む

昭和家庭史 キミ編(4) 芳造兄、父をしのんで能美郡へ

2005年12月02日 | 昭和家庭史
芳造兄が13歳の時に、石川県の父の故郷へ行って見たく成り出かけた。石川県ノミグンアザオゾエ野口村、丸尾太助と住所をきをくしている。まだ見ぬ父の故郷どんな思ひで出かける心に成ったのか、兄の心をしのんで、いぢらしい心がおきる。  無事に着き、帰ってきた。 沢山におみやげをもらって、うれしそうに語っていたときのことを思い出す。  山奥だと聞いていたので、山道を歩いていると馬 . . . 本文を読む

昭和家庭史 キミ編(3) 妹と一緒に卒業

2005年12月01日 | 昭和家庭史
私が11歳のときでした。学校をやめたのです。半日は魚屋を手伝って昼食をたべて帰り、それから家の手伝いをしたのです。1年間休学して学校へ通い始めた。妹の鈴子は1歳下でしたが、1年休学したので同じ学年に成りました。組はちがったが卒業はいっしょでした。 友だちは、そんなわけは知らないから、「落第した」とののしられ、子どもの私は言い分けができず、ずいぶん悲しかった。 でもおすぎ姉さんの恩を感じ . . . 本文を読む