ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕 光男終戦日記(13)  昭和21年4月

2007年05月07日 | 昭和家庭史
4月2日
 春釣記。 夜明けに排水機の所へ釣りに行く。一匹も釣れず。

4月3日
 今朝も釣りに行き、小鮒六匹釣る。明日から、当分毎朝行くつもりだ。

4月4日
 今朝も小雨の中を昨日の所へ行く。一匹も釣れず。

4月5日
 午前四時半から、康ちゃんを連れて行き小鮒一匹。
夕方、Dさんと池へ行き、えびがに一匹。

 4月6日
どんより曇って、寒い風が吹くが四時起きして、昨日の池は行ったが駄目。
備前川へ行き、五寸鮒一匹を得る。

4月7日
 工場と店休み。
かねての予定通り、家中揃って、その他に康弘兄妹、正雄ちゃんを連れ、高津から田中の方へ、遊びに行く。
 薄曇りで底冷のする日だが、久しぶりの行楽にのんびりした一日を過ごす。
 来年の花見は、どんな事になるか?
兎に角、罹災後一年、かうして一應生活の安定を見られ花見でもする気になれたゞけでも有難いと云わねばなるまい。

4月10日
 總選挙の為、工場は休み。
四時半に起きて「油面」に行ったが駄目。總選挙を済ませてから、又備前川から、服部の方まで行ったが全然駄目。
 二時半、空しく帰宅して、夜まで店をやる。

4月14日
朝、四時半に起きて、釣りに行く。
油面から、霞ヶ浦まで歩いて、一匹も釣れず。
つくづく厭になって了った。午後から夜まで店を手傳ふ。  
    ○
 今日は、罹災紀念日だ。
 1年前の今日を考へると、實に感慨無量だ。 兎も角、かうして土浦で、確実な職業に就き、一家元気でゐられる事を考へると、壱千万の罹災者中でも、恵まれてゐると云へるだらう。

4月18日
 朝釣りに行く。うなぎを一匹釣り落とした。
二、三日休んだ間に、すっかりもう葉桜だ。

    ×
 工場、ガス不良に加へて午前中停電。腐って午後から休み、たにし(注1)に行く。 物凄い風だ。
    ×
店、今日は暇なり。
    × 夜、鈴木家と一同で”新妻鏡”を見に行く。
4月21日
 朝五時から霞ヶ浦へ行き、池で十二匹釣る。
久しぶりで釣りの快味を味わった。
    × 今日から料金を二円五十銭となる。午後、店を手傳ふ。
      この二、三日店は暇だ。うちばかりで無いらしい。
      夕方、市役所横の湯へ行く。快感。
       夜、配給のビールを呑む。
4月25日
 朝から雨が降る。
土浦へ来てから丁度満一年。感慨無量だ。
去年の今日は、からりと晴れて、底冷へのする日だった-------- 色々の事が思ひ出される。
 兎に角、土浦へ来たと云ふ事、戦争保険増額した事、理髪小道具が助かった事、吉井工場へ入った事、總てが、神の助けと云ふより他に無い。
最善の努力と誠実と-----この二つを生活の信条として来た賜と云ふ可きであらう。
 今日は月給日。七百五十二円とって来る。
封鎖預金(注2)、二百四十円程。


4月28日
 曇り。 四時起床。
霞ヶ浦の”農場池”へ行き、一時間半程で大小十二匹程釣り、実に面白かった。
 店多忙。六十三円也。
夕方、英生を伴ひ、”海軍池”へ行ったが一匹も釣れず。
夜、ビールを呑む。

4月29日
 天長節で工場は休み。
今日は天長節でも街には一本の國旗も出てゐない。
敗戦国の悲惨な現実である。
     ×今日も四時から起きて農場池へ行く。
      一時間程の間に中小十五匹。他にたにしを少し。
       午後四時まで店を手傳ふ。今日も多忙。昨日と今日の二       日間で百五十円かせいだ。
       五、六年前の二十円位のものかも知れぬ。

      ○ 智生、二、三日前から気管支カタル。
        昨夜から今日にかけて、最も苦しさうだ。
         昨日は三時半に起きて寝たのが十時、今日は三時に
        起きた上、店が忙しいので体はヘトヘトに疲れて了った。
4月30日
智生、石川さんへ連れて行く。
肺炎になりかヽってゐるとて注射する。
今日は店が七百円弱、工場が七百五十円程とれたが、支出が千三百円かヽったので、結局百五十円しか残らぬ。
然も現金収支では九十円の赤字となる。
世間では一体どうやってゐるのだらう。


■■ ジッタン・メモ
(注 1)  たにし
 昭和21年の田んぼには田螺(たにし)がたくさんいて、これを集めて煮て食べた。
長い竹ざおの先に針金状の網状のものを作って田螺取りをしたことをかすかに覚えている。
味噌煮で食べたが、貴重な蛋白源だった。
 
(注 2) 預金封鎖(deposit freeze)
 過去の実例 戦後不足がちであった食糧の買いあさりの防止や、インフレ対策として預金封鎖と新日銀券への切替えを含む施策が1945年11月頃から検討され、司令部と の折衝を踏まえ、1946年2月17日に勅令(大日本帝国憲法第8条)、すなわち「金融緊急措置令(1963.7.22廃止)」「日本銀行券預入令 (1954.4.10廃止)」に基づき幣原喜重郎内閣により実施された。
 これは、食料増産、インフレーション対策を含む経済緊急対策措置の一環として実施された通貨措置で、日銀券を新券と交換し、旧券を強制預入させ、預貯金の 払出しを制限するという方法で、通貨と預貯金を封鎖し、浮動購買力の抑止を意図したものであった。 (大蔵省財務局五十年史より)

写真の絵
光男作品 1950年代のもの


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