ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔江戸の古町へ〕(7)【絵が語る 知らなかった江戸のくらし】 武士の巻 本田 豊 遊子館

2010年07月10日 | 〔江戸の古町へ〕
【絵が語る 知らなかった江戸のくらし】 武士の巻 本田 豊 遊子館
著者は個人通信誌を発刊しながら、江戸探求を進めている人。
30年かけて国内4000か所を歩いている。
被差別社会史論を専攻したという。
添えられたアンベールの幕末日本図絵などの精密描写が面白い。他の挿絵も豊富。
江戸絵中にある変体仮名には時々、著者の解読文も添えられていた。

● 拷問は笞打ち海老攻め吊るし攻め
むごい取調べを担当主役は奉行所の吟味与力。
この拷問で落ちなければ膝の上に13貫(48キロ)の石を抱かせることもあった。

● 汚れ役 嫌われ役の町同心
通称、八丁堀の旦那。 今冬亡くなった藤田まことさんが「必殺仕置人」で扮していた中村主水のあれだ。
与力は代々世襲制、一切の加増なし。
暮らし向き、そう楽ではない。

● 岡っ引き 江戸では犬で西は猿
江戸では同心・与力の手先を犬と嫌い、大坂は密告専門だから猿とした。
見ざる言わざるではなくその逆でチクる。
それを地でいっていたから、東西の地で、ともに嫌われた。

● 検死役 と並べば不浄なり
囚人が牢で死んだり、往来で行き倒れがでたりすれば検死は誰かがやらなければならない。
の死人後始末作業の立会いを与力がつとめた。
そこから生じて不浄役人と呼ばれた。
子供の頃によく見たチャンバラ映画で、主人公が捕り方に囲まれると、「おのれ不浄役人め」とミエをきって、そこからバッタバッタと斬り殺し死地を脱出する場面があった。
「不浄な縄目をうけるものか」という古い言い回しもこれからきている。
 当時世知辛く、同心もなかなか浮かばれない侍層だった。

● 学び舎は弾左衛門の屋敷跡
この・の頭領が弾左衛門。
幕府からお墨付きを貰って 関八州、伊豆全域、甲斐、駿河、陸奥、三河の一部を統轄する権限を与えられた。
「頭」は幕府側の呼び名だったが、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。
現在の都立台東商業高等学校の運動場あたりに屋敷があったといわれる。

● 表札はかかってなかった大名家
テレビの時代劇でどこの屋敷かわかるように表札が掛かっているがあれは嘘と著者。
町民は公園のように広い大名屋敷を知っていることがあたりまえの世の中で、大名の方から名乗りをあげて表札をかけるいわれはない。
ただ名入りの絵地図はあったわけで私も何回か見てる。
細かく分別されていたから参勤交代の地方の武士にとっては助かったわけだ。

● 直弼の墓は世田谷豪徳寺
彦根藩の所領飛び地が世田谷だった。
だから墓はそこにある。
桜田門外の変で襲撃した関鐵の助の墓は南千住の回向院にある。
ここは以前行ったことがある。
2・26の磯部浅一や 鼠小僧らの墓も一緒にあった。


● 五軒でもひとつの町はできあがり
どんな町にも木戸と番屋があってそこに番太郎がいた。番太郎は大体がで町抱えで雇っていた。木戸と奉行所との関係連絡は深い。

● ペリーへの献立 百兵衛鉢巻し
幕府は二千両で「百川」に出仕させたという。
百川は日本橋浮世小路にある料理屋。
この「百川」に奉公人としてやって来た田舎者の百兵衛さんを面白くした噺がある。
三遊亭圓生(六代目)や今回協会長になった小三治のがいい。
 ペリー接待を日本橋でやったという記録はなさそうだから、百川の料理人が現地へ出向したと考えるのが妥当のようだ。
百兵衛さんもお伴したかも知れない。

● 備蓄米 賄賂に代えて民は飢え
東北盛岡辺りの南部藩では天保3年(1783)の飢饉で藩内の3分の2が餓死したという。
夏に霜が降る天候不順で、「やませ」と呼ばれる海からの冷たい風も多い。
 藩財政の窮乏も著しいが、幕閣に官位の叙任工作を働きかける出費も大きい。  
大坂堂島のコメ相場が上がると、役人が備蓄米を売って換金し飢饉をさらに大きくした。
天災に非ず人災だった。

●  4俵を脇に抱えた力馬
米俵1俵は約60キロある。
それを両脇に4俵ぶら下げた農耕馬も立派だ。

● 菊タブーにも似ていた武士タブー
戦前はもとより、昭和が続いた戦後も皇室タブーがあった。
それに似て、高貴なお方の先祖調べや出版などは固く禁じられていた。 「猥成義異説」として人々の家筋、先祖について新しく書くことは厳禁。
先祖探しや”自分史”などの探索は勝手にはできなかった。
庶民から武士の日常を描くことは「ご政道批判」につながるとこれも厳禁。
 将軍や江戸城などは遠い鎌倉期の頼朝に仮託して描き、忠臣蔵などは吉良は高師直、浅野は塩冶判官に代えて歌舞伎に替える。 これとても事件から47年目にしてようやく上演ができた。

● 家康の出自知ってた彦左衛門
最近の時代劇では天下のご意見番・大久保彦左衛門や一心太助はあまり見かけない。
我々の世代では月形龍之助がそれであり、太助は錦ちゃんが演じていた。
この大久保彦左衛門が書いた「三河物語」に徳川家の先祖が徳阿弥という漂白の遊行僧であったことが書かれている。
 『何処とも定めたまうところもなく、十代ばかりも、こなたかなたと御流浪なされ、歩かせたまう』(三河物語より)
この本は大久保家門外不出の書といわれたが明治時代になって公開された。 先祖も謎めいているが、家康の出自自身も不明な点が多い。
功成り名を遂げたことで、そのタブーは霧の中に仕舞われている感じがする。

● 屋敷では調教できぬと馬喰町
屋敷内で広い馬場を持てるのは雄藩だったり旗本での相当の侍。
家格で馬何頭所有の規則もあった。自分の家で飼えないときには、必要なときに借りていた。
でも、武士たるもの馬を操練できなければ話にならぬ。
そこで調教をするため馬喰町に行き行った。
ここでは馬には不自由しない。
文中にそれを描いた絵があった。
いわば自動車教習所みたいなものだったかも。

● 若様の凧の行方に眉ひそめ
屋敷内には古木や池もそれなりにあり、若が凧をあげるスペースにも乏しい。
揚げた凧が隣屋敷の境界の梅の木などにからんだり、内側に落ちたりしたときが大変だ。
同僚同格ならいざ知らず格上の場合には、言い訳挨拶程度ではすまない。
といって若が、可愛い跡取りであることには変りがない。
困った。

● 水茶屋の笠森お仙を見に行こう
文政の頃、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた娘がきれいで可愛い。
江戸一番の看板娘と評判が立って、武士も庶民もそれ行ってみようという空気だった。
茶屋には寄り合い、料理、茶店という上級なものから 猫茶屋という潜り売春、陰間茶屋という男娼専門の茶屋もあったという。


● 炎天の喉の渇きは蕎麦屋にて
参勤交代で藩邸にいる地方武士の楽しみはともかく江戸の練り歩き。
炎天下での水代わりになるのは蕎麦湯。
何杯でも御代わりが利き、しかも酒の肴にもなる。
浅黄裏の御身分では、それほど懐中豊かではないのだ。



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