ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

番外・大正編 震災まで(1)  辰雄、幼児期の思い出

2005年11月13日 | 番外・大正家庭史
家庭史の資料をあれこれ整理している中で、今から29年前の辰雄叔父からジッタン(当時30歳)宛ての書簡綴りが出てきた。この中には関東大震災以前のわ が家族3兄弟の歩みが綴られていた。
いま綴っている昭和初期の家庭前史にあたる資料と判断、叔父の書簡は原文のまましばらく掲載したい。
これは、い まから90年前の本所・浅草界隈の一庶民生活史として、読んでもらえれば幸甚。


 辰雄の書簡冒頭に回想記「お断り」として以下の文面があった。

「以下、記述の簡明を期する為に、登場人物その他、一切の敬称を省いて第三人称を用いる。お袋さんと(注)キミ ジッタンの母)の回想談と喰 い違う点、また私の記述よりお袋さんの方が、むしろ詳しいかも知れない点等があるだろう事を前もって承知願います。
別紙地図を参照しながら適当に想像の視 野を拡げてください。」

 ■■三笠町
以前 松次郎は関宿藩士の二男坊として生まれ、いつの頃か東京に住みついた。
 無学文盲。
 通俗紙誌類はすべて振りカナ付きの時代だったから、カナを頼りに新聞や新聞小説を独り音読していたのが印象的である。
 これに反してその妻つるは、われわれ3兄弟がさんざん苦労させられた本郷追分のガラス工場の”親方”(毒舌で有名)さえ
 「おめえのお袋は、ていしたものだ。どうみたって旗本の奥方サマよう!礼儀・作法・容貌・態度どっから見たって、ガン松さんのオカミさんって柄じゃねえな!!」
 と後年、辰雄に述懐したものだった。
 彼女の達筆ぶりは戦後、彼女の長兄、祐心坊宛の毛筆書きの私信が最近まで何通も遺っていた事実を辰雄は知ったのである。
 松次郎夫妻が(凡そ不似合いな二人が)どうして結ばれたかも聞いていない。
 これはむしろ光男の方が真相に詳しいかもしれない。
 ■■ 三笠町時代
 明治42年(1910年)8月に東京は大洪水に見舞われ、軟弱地盤と東京ゼロメートル地帯と呼ばれる江東地区その他下町は、床上浸水で舟で交通したそうだ。
 その洪水の最中に辰雄はこの世に生を受けた。
 この洪水で一家は”石原町のオフミちゃん”一家に何かと世話を受けたそうだ。
 そればかりでなく、この大衆食堂・フミちゃん一家は、つる女のお輿入れの際の親代わりに成ったとかいう浅からぬ因縁で結ばれていたらしい。
 三笠町以前の事実を辰雄は何も聞かされていないし、もちろん洪水を目撃したわけではないが、その洪水の疵痕は、震災で廃墟と化すまで、処々のトタン塀に浸水のレベルを示すものとして長く延びた赤錆にそのまま記録されていた。
 だが三笠町時代は、辰雄が凡そ0~3歳の頃だから明瞭な記憶はない。
 宗太郎、光男の顔を覚え始めたのは、この時代の終わりの頃だった。
 この辺一帯がすべて長屋であったように、そこは裏長屋と云っても良い。
 部屋を改造して鍍金(メッキ)作業場として、そこはともかくモーターとベルトが在り、研磨盤が在った。
 労働は家族と職人3名、徒弟1名で行われていた。
 この時代の終わりに光男は小学2~3年生だったろう。
 辰雄はなぜか”汽車”と”積み木”の玩具だけが好きだった。
 兄たちと積み木で遊んだこと。
 銭湯で光男が泳いで遊んだ事、それがつる女と辰雄との3名だった事、 銭湯の釜場で丸裸の三助が朗誦する浪曲のストーリーを聴いて光男がつる女に説明をしたら彼女が感心していた事。
 既に経済的に没落し始めた松次郎がメッキを一時やめて、一種の手技印刷(切り抜き模様の型紙を襖紙に載せて、その上から箆(へら)でゴム糊をつけ、型紙を 剥がし、金粉、銀粉などを振りかけて襖絵を作る)などを座敷でやっていた事、等等が断片的に、しかし妙にはっきりと辰雄は今も記憶している。
 この長屋裏から本通りの若富町に出る角にパン屋があった。
 そこへ一家は”もらい湯”に行くほどの交際だったらしいが、そこの娘と光男は仲が良かった。
 おそらく光男にとっての”初恋”だったのだろう。
 辰雄より光男のほうが早熟だったのは確かであるが、この事実は後年、辰雄が直接光男から聞かされた話だ。
 辰雄は幼児から”ヨー服”が好きだった。
 松次郎の姉夫妻(小学校教員 山本銀五郎)やその一人息子”山本のアンチャン”は高襟(ハイカラー)にカフス、黒のモーニング(?)を着用していた当時の美青年だった事からの影響かも知れない。
 その後、石川啄木が着てるようなワイシャツ式の下着が一般には使われていた。
 光男は画用紙を切って、辰雄の手首と襟にそれを突っ込んでやって、辰雄が
 「ヨーフクだ、ヨーフクだ」
 と家中済まして歩いたり街路を歩いたりするのを喜んでいたのも印象的である。

■■ ジッタン・メモ■■
 三笠町とは
今の東京都墨田区亀沢町あたりが本所三笠町となる。
 江戸期には緑町、花町辺、吉田町辺、吉岡町辺とあわせて凡そ18か町、人足148人が火消しにあたった記録(新 消防雑学事典 (財)東京連合防火協会発行)があるから相当に古い地名らしい。本所の七不思議の伝説があるのもこの町だ。
丑三つ時になると 突然、屋敷の天井から血まみれの巨大な足が突き出され「足を洗え!」と命令する話で、谷田挿雲の「江戸から東京へ」にも詳述されている。
洗ってあげるとお となし足をく引っ込めるが、無視すると大暴れするという怪談噺で光男が幼児であったジッタンに寝物語に聞かせていた。少年時代の土地勘もあって こんな噺をしたのかも知れない。
(カット写真 この近くの江東小学校のものを拝借)

 回想記の由来 
 ジッタンが叔父辰雄にこの回想記を頼んだのは、ジッタンと実父光男の生別に由来している。
 ジッタンが12歳(小学校5年)の時、光男は心臓病などで51歳で他界。
 光男がどのような時代を過ごし自分がどうして世に生まれたのか。
その消息を知る人は弟であった辰雄(平成16年11月 死去)と母親キミ(平成10年 9月死去)の二人しかいない。
そこで29年前に、叔父に回想録を頼んだが当時の期待は外れた。
 あまりにも古い3兄弟の大正期の少年時代のことが書かれていて、自分が求め探していた父親像がない。
 いつとはなしに、この書簡の記憶は薄れていた。
 ただ今回、昭和家庭史を辿る中で、この資料の貴重さを改めて知った。
 ルーツ探しというのは意外だ。
 わが祖父松次郎が千葉県関宿藩の藩士の二男として生まれ、兄姉がいたことを初めて知った。
松次郎を生んだ父親が辰也という藩士であることは戸籍上で知っていたが、さらに遡っての戸籍ルーツ探しは無理だった。
 関宿藩藩士と言っても久世家の下級武士で、なぜ関宿の地から浅草界隈に松次郎が流転してきたかは今は謎となる。
戊辰戦争の際、関宿藩の少数一派は幼君を担ぎ彰義隊に流入しているとのことは史実を調べたことがあるが、家系に流れる”血の気”から見て辰也は彰義隊に組した結果、浅草界隈に住んだのでは、と想像をたくましくしているが、これはまったく根拠はない。
 また祖母のつる女については、父の光男から聞いた記憶はない。
この辰雄書簡でその人柄を知ることができた。


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