ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 光男編 (5) 筆名は剣慕 沢正の魅力

2006年01月06日 | 昭和家庭史
「沢正っていうのは、たいした役者だ」「フムッ 迫力がね」「須磨子とのけんかの仇で咲いた新国劇か」嘴同人たちは、昨日連れ立って観劇した市村座の行友季風作「国定忠治」山形屋の場面で感想を述べ合っている。なかでも光男は新国劇・沢正の熱いファンであり、この芝居好きが、まもなく築地小劇場通いにもつながってゆく。

 嘴同人たちが話し合っているのは、故郷国定村へ向かう忠治の小松原争闘シーンである。
 闇の舞台。雷鳴の閃光、燃え尽きる提灯の火を手がかりにくりひろげられる無言の修羅場殺陣。
闇より斬ってかかる敵を右に左に切り伏せる忠治。
大仰な身振りを極力おさえた新国劇殺陣の真骨頂がそこにあった。もっとも光男は津川理髪店時代から浅草オペラなどには見向きもしない時代劇好きで、もっぱら「浅草の猛将」と言われた沢村訥子の覇気と豪快な芝居や中村福円の演技を愛していたようだ。
これは光男の弟の辰雄の書簡で確認したが、辰雄はこの2人の演技者を描写している。

 「訥子に就いて云えば彼は独特の発声と壮絶なつらがまえをした人物で「曽我兄弟」では、仁多四郎忠常の役で「にたんの」と発言する処を「みかんの」と観衆には聞こえるような発声でしたし、いつも泣いているようなしかめづらをしていました。
彼の「今川義元」の最後の場面は今でも眼に浮かびます。
中村福円では忍者、石川五右衛門の宙乗りが印象的で、宙乗りをしながら自分の似顔絵を観覧席に捲き続け芸者でもあるらしい観客が「福円さん、こっちにも頂戴!」と嬌声を発していた事や、「吉原千人斬り」で、握り締めた短刀が自分でも外せずに、舞台の床面にドンと肘をついて外す場面が子ども心にも真に迫ったものとして写りました」「昭和58年3月6日付け書簡)

 嘴時代に光男は剣慕との筆名を使っていたがこの由来を探ってみたい。
 光男は昭和4年、38歳で夭折した沢田正二郎を心から哀悼し
 「俺の生活の楽しみの半分が消えた」
と新婚間もない妻キミに向かってぼやいていたという。
沢田は大正6年3月に芸術座で松井須磨子の恋人役として出演中に松井と感情的に対立したことで脱退。
演劇が大衆から離反することを嫌ったこともその一因であったらしい。
6月に一党を率いて新富座で新国劇の旗揚げ。
しかし、みごとな失敗で客の入りは、散々の不入りだったという。
沢正26歳、その後関西を転々とし東京へ舞い戻ったのは震災の年になる。
朝夕の糧にもこと欠く各地巡業の中で沢正は、”剣”を磨く。
 
「この危険な時代、成金時代、人は僥倖の夢のみを追い、世は挙げて浮華の幻に漂う危ない時世、此れを観た私の胸に紫電の一閃を投げたるものは実にこの剣でした。(中略)
 この私共をごらんなさい。
二六時中汗にまみれ、脂によごれ、脛を剥ぎ腕を傷つけて、懸命の大立廻り、この真の生活、懸命の努力の、その姿を観客席へ投げつけることでした。
白刃の下、生死の境、夢も虚栄も偽りもない命愛の刹那の、その生活の至境を芸術化して世人の心に植えつけることでした。
この覚世の理想、その刺戟の反動的効果を、ひそかに信じて私は、昼夜兼行、黙々と邁進を続けました」(昭和4年「新国劇」 沢田正二郎「舞台の面影」)

沢正の「剣」は泥と汗にまみれた文字通りの真剣勝負であったことが理解できる。
別の場で沢正は彼の小伝を書いた武田敏彦に
「僕の殺陣の発祥は実は少年時代に見た浅草の小芝居なんだよ。それは全く、たいしたものではなかったが、そこに犯し難い大きな大衆性を感じたものだ」 と語っている。
光男も浅草の小芝居を見て育っており、やはり胸をワクワクさせていた一人であったろう。
しかし光男は沢正の殺陣のみに惹かれたわけではない。

「暑さは逃れ得べきものではない。逆に征服すべきものである。
その武器は只ひとつ、活動あるのみである。
避暑地の別荘に寝転んで、無為に苦しむ夏の真昼こそ、目の極楽、身の地獄、これほど暑苦しい生活は無い。」( 前記「舞台の面影」巻末)

これは沢正の信条でもある。
満々たる覇気と気概。
こうした青年演劇人への共感とあいまって「剣」を「慕」う名、「剣慕」という筆名が誕生したと思う。
もとより父としての光男に聞いたわけではない、父の青春譜を辿った息子の直感的結論みたいなものだ。
沢正は彼の演劇半歩主義について

「演劇の対象物が見物、即ち時代の民衆である以上、見物を離れて劇の理想はあらう筈がありません。
と言って無闇に民衆の興味のみに媚びていては、これまた永遠に演劇の進歩も民衆の進歩もない。
汝演劇者よ!常にその手を親切に民衆と握手せよ!而して片足のみは不断に民衆より半歩を進めよ。
だが、それは正に半歩でなくてはならない。
まるまる一歩を進めてはもう民衆との握手が保たれない。
さりとて、この半歩の進出を忘れては、永遠に進化が望めない。半歩、半歩、片歩を民衆の趣味におき、片歩を次のよりよき芸術に進める。
あせらず、たゆまず、半歩々々の前進こそ、最も確実な最も有意義な『民衆と共にある進歩』である。」

 独善と高踏芝居を避け、民衆と半歩の距離をおいて芸術域を高めるという考えも、光男には共鳴し共感できるものであったと思う。
 帝劇の「白野弁十郎」(シラノ・ド・ベルジュラックの日本版)や真山青果「桃中軒雲右衛門」(4幕6場)小山内薫「吉利支丹信長」などの芝居を熱心に見たとする光男にとって新国劇は最も気に入っていたようだ。
光男は後年、娘の順子に
 「お父さんが若いときには、沢正の弟子入りを本気で考えたことがあったんだよ」
と語ったそうだが、これは無論、俳優ということではなく座付きの脚本家あたりを夢見ていたのではないだろうか。
その沢正は中耳炎がもとで、昭和4年3月4日に逝く。

 ■■ジッタン・メモ■■
講釈師 見てきたような 嘘を言い

冒頭の嘴同人たちの会話はジッタンが”講釈師”のようですが、母キミからの「又聞き」を再現したものです。
光男とキミは、この年代には珍しく、よく思い出話をしあった夫婦で、光男亡きあと、キミは二男のジッタンに「嘴」の状況を語ってくれました。
小松原争闘シーンも、聞かされたものですが、小生自身は、辰巳柳太郎の忠治役でのこの殺陣を中学時代にテレビで見た記憶があります。
沢正亡きあとの新国劇は島田正吾と辰巳柳太郎という二枚看板を得て劇団を長く支えていましたが、1987年9月に70年の歴史に幕を閉じています。
 島田は 「島田プラス辰巳でも、まだ沢田先生には追いつかない。たどり来てまだ山のふもと、という感じですよ」 とよく語っていたといわれます。
 辰巳は新国劇を閉じた2年後、1989年7月29日に心不全で逝去。享年84歳。
 このとき、島田から辰巳への弔辞が話題になったのを覚えています。
その記事が手元にあるので紹介します。

  「辰巳!」。
さる二十二日、東京・青山葬儀所で行われた親友辰巳柳太郎の葬儀で弔辞に立った島田正吾は、遺影に向かってこう切り出した。
  「お前は、一昨年の新国劇七十年のあと、目に見えて衰えていった。重い荷物を背負って、長い道中を歩き続けた疲れが、いっぺんに出たのかもしれないな」
  「お前の舞台は男性的で明るく、にぎやかだった。けれど、もう一人の辰巳柳太郎は人一倍、神経質で寂しがり屋だった。そんなお前だから『王将』の坂田三吉の名演技ができたんだ」
  「おれとお前は六十年以上、ひとつかまの飯を食べ、喜怒哀楽を共にした。女房、子供より二人一緒の方が長かった。だから、腹の中で、こんちくしょうと思いながらも、けんか別れしないで長い年月持ちこたえられたよな」
  「新国劇の名前を、一昨年の七十周年公演を限りに沢田家にお返しした。あれは、おれとお前しか分からない男の悲しみ。しかし、心は永遠に新国劇だ。それでいいんじゃないか。そう、思うよ」
  「島田のやつ長えな、とお前にどなられそうだからこれくらいにするよ。長い間、本当にありがとう」  
書いたものは一切なく、切々と語りかけること約十分。
島田の友を思う情愛に打たれ、涙をぬぐおうともしない参列者が、あちこちで見られた。  
今はない新国劇の二枚看板だった、島田と辰巳。二人の友情を描いた弔辞は、どんな芝居にも勝る男と男の感動のドラマだった。(常) (1989年 8月29日 読売新聞 夕刊 芸能面記事)

 その島田も、2004年11月26日に98歳で逝く。
ところで最近のNHK大河ドラマも、12チャンネルの正月時代劇も、女と”大衆”に媚を売るだけの、ちゃっちい時代劇が多くありませんかね。
新国劇逝って、悄然、憮然たる想いでございます。

写真  パンフは昭和4年のもの

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1 コメント

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中村福圓の事 (久遠)
2013-09-04 20:42:42
初めまして。久遠と申します。
現在「初代中村福圓」「二代目中村福圓」の事を調べて
おります。中村福円で検索していた所、ここにたどり着
きました。
このお話にある「中村福円」の時代は「昭和」でしょうか?
いつ頃の事でしょうか?
(実は私、初代中村福圓の血筋の者です)
不躾を承知でご質問させて頂きました。よろしくお願い
申し上げます。
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