関東大震災から元町の実家に戻ったキミは昭和元年、東京銀座の「富士アイス・レストラン」に就職した。キミ18歳。
以下の話は今から20年前母親であったキミさんからジッタンが聞いた話を、ちいさくまとめたものです。
銀座・富士アイスはこじんまりと洒落た洋風のレストランだった。
「売り子」が新聞で募集されたのがきっかけで、キミは就職面会にでかけた。
キミの前に現れた同社の太田専務から
「うちではおしろいはダメだ。派手な着物もダメだよ。それでも来る気があれば、明日からおいで」と言われた。
銀座にカフェーが流行り、モガ、モボ気取りの若い人たちが銀座通りに現れてくる空気のなかで、それとは、逆の言い様がキミには気に入った。
妹すず子を誘って2人で勤める事になった。
店には千代という同名の娘が2人いて、彼女たちは「大ちよ」「こちよ」と呼ばれ、ほかに「琴」、「ハナ」という娘もいた。
4人に混じってキミ、おすずの姉妹も働いた。
朝8時から夕6時までと、朝10時から夜10時までの2交代制でランチタイムの時間は社交人の憩いの場として使われた。
若き日の歌舞伎俳優・中村翫右衛門が窓際の陽だまりでコーヒーを飲んでいた事もあった。
ここは言論人や新聞記者の出入りの多い店で、キミの観察によれば、背が高く左頬に刀疵のあとがあり馬賊の親分のような人が馬場恒吾であった。
顔に似合わず働く娘たちにはやさしく親切であった。
馬場は大正13年に[国民新聞」編集局長をしていたが、この頃は社会評論などをてがけていたジャーナリストで社会大衆党の顧問として普選実現などに尽力していた。
「どんな悪党でも、その人の真実の味にふれれば、そう憎むべき人物はいない」というのが彼の信条だったという。
「しかし、軍部の専横やファッシズムに対しては、一貫して強い姿勢をとりつづけ、決して妥協しなかったところに馬場の真骨頂がある。また暖かい人柄と謙虚士のため、多くのジャーナリストの敬愛を集めた」と現代人物事典(朝日新聞社)は紹介している。
戦後、読売新聞社の社長にも就任している。
もう一人よく来るお客に坊主頭で周りから「詩を書く人」と言われていた土岐善麿がいた。
土岐は震災の年から読売をやめて朝日に移り昭和15年まで同社で活躍した記者で啄木との交友を機縁に「啄木全集」などの刊行もしていた歌人でもある。
この2人から姉妹2人は「おすず」「おキミさん」と呼ばれ、やさしくされたという。
富士アイス専務の太田の親友でもあり株主であった人に山森利一という人がいた。
弁舌で風靡した富山の代議士・永井柳太郎の影響を受けた人で民政党から同地で立候補し一敗地にまみれたという。
報知新聞の幹部でもあり店の常連だったが、ことのほか姉妹を可愛がってくれた。
銀髪交じりの彼は、妹の鈴子には実娘のような親愛を示し 「おすず、おまえはほんとうに可愛いが、言葉づかいがちと悪すぎる」
などと笑ってお説教もしていたという。
キミの妹鈴子は、色白ぽっちゃり型の美人で水谷八重子に似ていた。
当時の雑誌コラムで「富士のマドンナ」とした記者のいたずら書き紹介されたこともあったというが、おきゃんで活発なところが愛されたらしい。
本郷元町にあった彼女たちの家のすぐ裏に、新婚間もない青柳という読売の記者がいて、山森とは顔見知りだった。
青柳は山森から問われるままに彼女たちの生活ぶりなどを耳に入れた。
キミ9歳の折りに父が病死、母しげが「焼き鳥」「おでん」の仕込みをし長男初吉が屋台をひいて神楽坂あたりで屋台を引いていたこと。
キミは真っ暗な神田川沿いを歩いて仕込みの品を届け、鈴子や弟妹の面倒をみていたことなどは山森の知るところとなる。
この山森が目にかけ、面倒を見ていた青年がいた。
当時28歳の青年漫画家・麻生豊である。
キミの記憶では麻生は歌手・灰田勝彦によく似た上背の高いスポーツマンタイプの美男子であったという。
彼の描いた「のんきな父さん」は大正12年11月25日に報知夕刊の連載漫画としてスタートした。
高田編集局長の特命を受けて新入社員の麻生が書いた。
4コマ漫画のはしりでもある。
まだ震災から2ヶ月目の時期でもあり、この漫画は沈みきった人々に明るい話題を提供し人気を呼んだ。
麻生もよく富士アイスに姿を見せ、山森を通じて質朴、純なキミを知るようになる。
■■ジッタン・メモ■■
キミの記憶にある山森利一という人。
同姓同名の人が昭和4年の東京市会議員選挙に民政党から立候補して落選している。
選挙種別の記憶違いがあるかどうか、いまは確かめる術もない。
この話では、キミ女の記憶を優先した。
ただ山森さんが報知新聞の幹部であったこと、麻生とよく富士アイスに姿を見せたことは誤りない事実のようである。
以下の話は今から20年前母親であったキミさんからジッタンが聞いた話を、ちいさくまとめたものです。
銀座・富士アイスはこじんまりと洒落た洋風のレストランだった。
「売り子」が新聞で募集されたのがきっかけで、キミは就職面会にでかけた。
キミの前に現れた同社の太田専務から
「うちではおしろいはダメだ。派手な着物もダメだよ。それでも来る気があれば、明日からおいで」と言われた。
銀座にカフェーが流行り、モガ、モボ気取りの若い人たちが銀座通りに現れてくる空気のなかで、それとは、逆の言い様がキミには気に入った。
妹すず子を誘って2人で勤める事になった。
店には千代という同名の娘が2人いて、彼女たちは「大ちよ」「こちよ」と呼ばれ、ほかに「琴」、「ハナ」という娘もいた。
4人に混じってキミ、おすずの姉妹も働いた。
朝8時から夕6時までと、朝10時から夜10時までの2交代制でランチタイムの時間は社交人の憩いの場として使われた。
若き日の歌舞伎俳優・中村翫右衛門が窓際の陽だまりでコーヒーを飲んでいた事もあった。
ここは言論人や新聞記者の出入りの多い店で、キミの観察によれば、背が高く左頬に刀疵のあとがあり馬賊の親分のような人が馬場恒吾であった。
顔に似合わず働く娘たちにはやさしく親切であった。
馬場は大正13年に[国民新聞」編集局長をしていたが、この頃は社会評論などをてがけていたジャーナリストで社会大衆党の顧問として普選実現などに尽力していた。
「どんな悪党でも、その人の真実の味にふれれば、そう憎むべき人物はいない」というのが彼の信条だったという。
「しかし、軍部の専横やファッシズムに対しては、一貫して強い姿勢をとりつづけ、決して妥協しなかったところに馬場の真骨頂がある。また暖かい人柄と謙虚士のため、多くのジャーナリストの敬愛を集めた」と現代人物事典(朝日新聞社)は紹介している。
戦後、読売新聞社の社長にも就任している。
もう一人よく来るお客に坊主頭で周りから「詩を書く人」と言われていた土岐善麿がいた。
土岐は震災の年から読売をやめて朝日に移り昭和15年まで同社で活躍した記者で啄木との交友を機縁に「啄木全集」などの刊行もしていた歌人でもある。
この2人から姉妹2人は「おすず」「おキミさん」と呼ばれ、やさしくされたという。
富士アイス専務の太田の親友でもあり株主であった人に山森利一という人がいた。
弁舌で風靡した富山の代議士・永井柳太郎の影響を受けた人で民政党から同地で立候補し一敗地にまみれたという。
報知新聞の幹部でもあり店の常連だったが、ことのほか姉妹を可愛がってくれた。
銀髪交じりの彼は、妹の鈴子には実娘のような親愛を示し 「おすず、おまえはほんとうに可愛いが、言葉づかいがちと悪すぎる」
などと笑ってお説教もしていたという。
キミの妹鈴子は、色白ぽっちゃり型の美人で水谷八重子に似ていた。
当時の雑誌コラムで「富士のマドンナ」とした記者のいたずら書き紹介されたこともあったというが、おきゃんで活発なところが愛されたらしい。
本郷元町にあった彼女たちの家のすぐ裏に、新婚間もない青柳という読売の記者がいて、山森とは顔見知りだった。
青柳は山森から問われるままに彼女たちの生活ぶりなどを耳に入れた。
キミ9歳の折りに父が病死、母しげが「焼き鳥」「おでん」の仕込みをし長男初吉が屋台をひいて神楽坂あたりで屋台を引いていたこと。
キミは真っ暗な神田川沿いを歩いて仕込みの品を届け、鈴子や弟妹の面倒をみていたことなどは山森の知るところとなる。
この山森が目にかけ、面倒を見ていた青年がいた。
当時28歳の青年漫画家・麻生豊である。
キミの記憶では麻生は歌手・灰田勝彦によく似た上背の高いスポーツマンタイプの美男子であったという。
彼の描いた「のんきな父さん」は大正12年11月25日に報知夕刊の連載漫画としてスタートした。
高田編集局長の特命を受けて新入社員の麻生が書いた。
4コマ漫画のはしりでもある。
まだ震災から2ヶ月目の時期でもあり、この漫画は沈みきった人々に明るい話題を提供し人気を呼んだ。
麻生もよく富士アイスに姿を見せ、山森を通じて質朴、純なキミを知るようになる。
■■ジッタン・メモ■■
キミの記憶にある山森利一という人。
同姓同名の人が昭和4年の東京市会議員選挙に民政党から立候補して落選している。
選挙種別の記憶違いがあるかどうか、いまは確かめる術もない。
この話では、キミ女の記憶を優先した。
ただ山森さんが報知新聞の幹部であったこと、麻生とよく富士アイスに姿を見せたことは誤りない事実のようである。
実は、私の曾祖叔父は政治評論家(岩淵辰雄)で、馬場さんとは常に富士アイスの片隅で仕事をしていたそうです。
多くの言論人がこの富士アイスで激論を戦わせていたと、曾祖叔父の書籍には記述されています。
ですので、どうしても富士アイスに一度でもいいから行ってみたかった。でも、もう富士アイスはないのですよね。
ただ、一枚だけ、富士アイスで撮影された蝶ネクタイ姿の曾祖叔父の写真だけが残っているだけです。
でも、少しでも当時のことが分って嬉しいです。
いつか、富士アイスの跡地に行ってみたいです。
お店だと思います。