ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕光男終戦日記(9) 昭和20年12月

2006年12月31日 | 昭和家庭史
12月2日
 日曜。
 例に依って、午後二時間程散歩する。
今日は國道から、紅葉丘公園。眺望頗る佳。 帰途、又、コンニャクを買ふ。
今日は英生、治子ちゃん同伴。
 風強く寒かったが、スケッチ二枚を得る。

12月3日
 寒いと思ったら、たらひに氷が張ってゐた。
 午後二時から、200CCの頭を押す。 始めの二三十本は五里夢中だったが、終わり頃にはすっかり自信がついた。
 20が出来れば、三十CCも五十CCも出来よう。
 今度の20頭押は、相当重大な意義を持つものだ。
自分にも注射器工として立てる自信がついた。

12月5日
 料金変更の件に就き、組合長へ問合せに行く。
 暫定的に、闇料金を貰ふ事に定まった由。
 大体、他所は一円五十銭、結局、うちでは
       調髪 一円四十銭
       丸刈 一円二十銭
       中供 一円
       子供 八十銭
       顔剃 八十銭  右の通りにした。
              ×
今日、20頭押し二百二十四本。すっかり自信がついた。
 工場で、いか二匹配給。

12月7日
 Aと飛鳥の麥、結局、土浦辨であった。
 飛鳥のは終戦前からの御念の入ったヨタであり、Aのは自家の品を廻しても、必ず間に合わせると太鼓判を押したにも拘らず、一夜にして前言をひるがえしたのだから、つくづく此土地柄の、軽薄な、下劣さに呆れ返った。
 この土地の、”自然”は実に気に入ったが”人情”にはほんとうに絶望だ。 もう、決して、忘れても土浦の人間には何の期待もしない。

家の者と、鈴木と”千日前”を見に行く。
 ニュース映画で”食物市”実に生地獄だ。
 ああ敗戦國の悲哀。
餓死は、自分の目前にある。

12月13日
 英生、夜中から発熱。足が痛いと云う。
 成程、左の足が腫れて、熱を持ってゐる。足をくじいたのかと思って、折つぎへ行ったら、足の裏へ疔が出来てゐたのだ。
 大和田病院で手術をする。
一時は関節炎か、又は骨膜炎かと思って随分心配した。        
        ×
古い小型の鐵火鉢を十円で買ふ。
寒さに入ってやっと、手に入れた火鉢。----何となく家の中が明るくなる。    
        ×
 二十CC頭押し、一時間に四十本。努力すれば一日三百本は出来る自信がついた。

12月14日
英生今日は殆ど良し。
智生、風で醫者へ行く。
 光君、嘉一さんへ無沙汰見舞を出す。

12月15日
戦災者用に海軍の外套が配給になる。
無料。実に有難い。
 昨日から「こたつ」を入れる。
この冬は火鉢無しも覚悟してゐたが、びゅうびゅう吹く凩の音を聞き、家中でこたつにあたること云う事は、あゝ何たる幸福ぞやである。

12月20日
 20頭押し。今日は好調。三百位出来るかと思ったら、昨日迄の製品に、首部のハネ続出。 ざっと五六十本も出て了ったので、すっかり腐って了って、二百五十しか出来ず。
 首部のハネは、どうも原因がはっきりしないが、石綿を巻いた部分が餘り分厚になってゐて、劫って禍をしてゐるらしい。
早速、酒井さん流の、ブリキのウケに改める。
 何にしても、一つの技術を完成さすのは並大抵では無い。
                        ×
今日、晝間、志村さんの姉さんが訪ねて来た由。涙をこぼして懐しがっていた由。
                       ×
里見の「安城家の兄弟」讀了。

12月21日
工場を三時に仕舞ひ、霞浦劇場へ行く。
 吉右衛門一座出物は、「茶壷」「河内山」「道生寺」 道具が話しにならぬ程粗末。
それに見物が悪く役者に気の毒だ。
 八時帰宅。君子風を引く。順子も風。自分もやられたらし。

12月23日
 日曜日。午前中雨。
午後快晴 風を引いて大儀なので、午前中寝る。
午後頭がふらヽしたが店を夕方までやる。
 千代子さんとの約束の里芋、百五十円位に騰ったと云ふので断って了ふ。
 道義は全く地に落ちた。
 ほんとうに善い人間と云うふものはもう無くなって了ったか。

12月24日
 二十頭押しの首ハネ、今日までに二百八十本を数ふ。
原因はウケに使った石綿にある。ウケを全廃すれば、首のハネは無くなるが小物なら兎も角、ウケなしで巧く行く訳には行かぬ。
 Bは、遂に自分に對して正面から文句を云うに至り、自分も損害を弁償する事を申出でる。
 是に依って、今月の収入、四百四十円程が百円引込むで了った。
 工場を止めようゝと既に小野さんに申出たが結局なだめられて翻意する。
夜、酒井さんと二人で、Bと話し合ふ。
 Bの硝子に對する無理解と、獨断に腹を立て、何度喧嘩をして了ほうと思ったが、ぢッと我慢した。
 現在の殺人的な物価高、店の方の設備不完全さ、剃刀の不足、更に目前に迫った失業者群の続出に依る理髪業の不況、そして深刻---------否、それ以上の食糧難------それ等を考へると工場を辭めようとの決心はどうしても、にぶらざるを得ぬ。
可愛い我児達の寝顔を見れば自分一個の感情に依って、進退を誤ってはならぬと、泌々感じる。
 あと三月、或いは半年、その間の情勢こそ我々國民大多數の生死を決するものであろう。
あと半年--------。 それ迄、死んだ気になって、馬鹿になって、工場で働かう。あと半年、---------兎に角その時迄----------。

12月25日
 午前中、不愉快で仕事が手に付かず、気狂ひになるのはこんな時ではないかとさへ思ふ。
小野さんに、昨夜の事を更に念を押す。
 曰く 五パーセン位迄の不良は普通なり。 一割以上の場合は生地代の辨償をとる--------。
 夕方、酒井さんが交渉に行った時の辨は、------たとへ何割不良が出ても、損害を差引く事は無し。私の場合は、当人の申出に従ったまでと------。 一体どっちが本当だか解らない。
 今日も、断然止めて了ほうと思ったが、ぢっとこらえた。
 ハネを一割以上出すとも考えられないし、兎に角努力すれば四百円にはなるのだから、子供の爲にも、こらへよう。
 結局、今月は三百二十六円だ。
 先月までの月給を考へれば、まあ諦めがつく。

12月26日
 今日はやゝ気分良し。 二百五十本やったが、矢張り時々やってゐてハネが出る。
但し、よほど注意しないと分からぬ程度で、是が果たしてサマシを出るまで持つか疑問だ。
是が或る意味で、運命の分岐点だ。
 賞興百二十七円貰ふ。
昨日の報奨金が多少含まれてるかも知れぬと思ふ。

12月27日
 曇り。夜雨。寒い。
 工場は今日から休む。
五時に切り上って三十二円。
とても楽なものだ。

12月31日
 昨日は九時半までやって、六十円、今日は四十三円。
今日はヒゲ面が多かった爲、能率が上らない。
 今月の収入合計千0三十円、支出千二百四十円、差引二百十円の赤字。
恐ろしいインフレだ。
自分達のやうに二つの職業を持ち、一家中で働いてゐてさへ是だ。世間の多くはどんな暮しをしてゐるのだらう。
あゝ遂に飢餓は眼前に迫った。
 昭和二十年は、かうして前途暗澹のまヽに終わった!

■■ ジッタン・メモ

一坪千五百円

 「戦災地区復興の遅々たることよ。雨漏りが如何に激しくとも壕舎を持っているものは倖せである。
 既に焼トタンも古材もない。
 どんなに簡単な小屋でも、これから建てるには坪千五百円かかるという事実を想い見る時、戦災者たちは徒らに茫然佇立するのみである」   
昭和20年12月の文芸春秋 (「物価の世相100年」 岩崎 爾郎 読売新聞社)

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