ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

 〔14 七五の読後〕  【幕末百話】 篠田 鉱造 岩波文庫

2014年03月06日 | 〔 14 七五の読後 〕


【幕末百話】 篠田 鉱造 岩波文庫


明治35年の報知新聞紙上に連載された幕末維新期の回顧談集が文庫本になっていた。
幕末を知ってる古老達からの聞き取り集。
20年代に記者であった篠田鉱造が聞き取りを行った。
この人94歳まで生きた。

酒を嗜まず、色を漁せず、喫煙せずの記者であったらしい。
この頃の報知記者に独歩、紅緑がいた。

当時の古老から集めた茶飲み話は幕末の空気がいっぱいだったろう。
各々が喋る口調そのままを本にまとめたから、江戸の臨場感が溢れ、下手な時代小説を読むよりずっと面白かった。

● 蒸気船来て15年後の御一新
この15年間がまさに幕末という激動期。


★ 米国(アメリカ)土産は大したものよ ペルリがコロリを置いてった 

聞き書きをそのまま写すと


「ぺルリがやって来た時、あの時も好材料で、いろんな落首がありました。
ちょうど今年みたいにコレラが流行(はや)ったもので、時の流行歌(はやりうた)にも「米国(あめりか)土産は大したものよペルリがコロリを置いてった」
また落首で今も覚えていますのは、
  日本を茶にして来たか蒸気船タツタ一ぱいで夜も寝られず」


と記された。
我々の頃は「蒸気船タツタ四杯で夜も眠れず」だったと記憶するが・・・。
このコロリは「狐狼狸」の字があてがわれていたようで、砲艦外交のほか妖怪とか、毒物とかの眼で見てペリー一行の怖さを感じていたようだ。



● 彰義隊 脱走相場金一両
官軍の人夫のような男たちが、居酒屋で話している。
上野のお山からの彰義隊脱走兵を捕まえて届ければ一人一両が懐に入るなど。
その脱走兵は身を替えてこの酒場にいてそれを聞いていたという話しが残った。
彰義隊士はみな尾久、南千住から水戸や東北の方へ落ちのびた。

森まゆみ著の「彰義隊遺聞」(新潮社)が面白かった。

● 千葉佐那 龍馬室と墓碑にあり
千葉佐那さんは、ご存知辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女で龍馬とは
縁が深い。たしか許婚だったと記憶する。

室というだから奥方ということ。
それに纏わる話しが書かれているが、実際の墓は、交友があった山梨の小田切という民権家の懇意で作られた墓碑銘に残る。

坂本龍馬に与えた長刀目録に「佐那」と記され、司馬さんの作品でその名が使われ名前が一般化されたが、ウイキペディアでは「千葉さな子」として紹介され、掲載されている同写真の墓名もそうなっている。

維新後佐那さんは千住で家伝の灸を生業として過ごし、59歳で死んだ。
戦前でも足立区千住の千葉灸治院というのは評判が高かったらしい。
この沿線に住んで北千住で時折飲む私もこの名前を聞いた記憶がある。

● 異人サン お一人に5人騎馬護衛
幕末の日本滞在異人一人に五人が騎馬警護。
2名だと10名の騎馬が包んで護衛となるが、街道から石なんぞ投げるやつもあったという話が残っていた。

★ 桜田が桃の節句に赤くなり
★ 井伊鴨だ雪の朝に首を絞め

両落首とも安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変を詠った。
吉村 昭の「桜田門外ノ変」(新潮文庫)は状況描写が上手かったなぁ。

● 不寝番 菓子にお茶にご本まで
二十万石大名の不寝番を体験した人の回顧談。
一晩中、大名の寝ずの番をしたお傍小姓六人がいて御座を務める。
一刻(2時間づつ)づつ、役目交代して夜明けまで励む。
だがその実際は菓子、茶、弁当もつき、絵本太閤記とか馬琴や種彦の本も拝見できる。
あまり退屈する時間ではなかったようだ。

● 両国橋 番小屋 ど真ん中にあり

番小屋人は月給一分の役職。
暗黙の了解があって朔日、十五日に番小屋でウナギを売っていた様だ。
鰻のメソッコは客が4文の功徳料を払い南無阿弥陀仏を唱えて川に放つ仕組み。
だが橋と川までには距離がある。
メソッコは川面に叩かれほとんど死んでいる。

先代三遊亭金馬だったか、マクラで使っていた両国橋の放し亀の噺を思い出させてくれた一章でもあった。

● 折助と乞食3日でやめられず
幕末大名の大部屋などは怠け者の寄り集まりの場。
殿の供で帰れば仕事はない。
お供の間は3度の飯も大きな盤台で炊きたてが出る。
冷や飯なんかは歯もあてない。
但しお茶は身銭だったが、1年勤める者は鉄の草鞋を履いているのかと言われた。
待遇が悪ければ「プイッ!」「べらぼうめ、コメの飯とお天道さまは付物だ」と渡り中間となる。


● 川開き 将軍茶壷が先ず通り

宇治茶を江戸の徳川将軍家に献上する行列のことを御茶壷道中といったそうだ。
道中が、宇治を出立するまでは、新茶を他に出すことは禁じられていたという。
たいへんな権威があったらしく、洪水があった後の川開きでも、人を差し置き先ず御茶壷が第一だったという話しが残った。
沿道の町民などは茶壷の行列がやって来たら、戸をピシャンと閉め閉じこもって息を潜めた。運悪く、道中に出くわしたら、ひたすら土下座して行列を遣り過した。

童歌の「ずいずいずっころばし」は茶壷道中から生まれている。
このわらべ歌を無邪気に歌っていたが、かなり卑猥猥雑な調子も含まれている。
その意味解らぬままによく口ずさんだ歌だった。


ずいずいずっころばし
ごまみそずい

茶壺に追われて
とっぴんしゃん

抜けたら、どんどこしょ

俵のねずみが
米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅう

おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ

井戸のまわりで、
お茶碗欠いたのだぁれ













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