ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕光男終戦日記(6) 昭和20年9月

2006年11月06日 | 昭和家庭史
9月1日
 今日もまだ下痢。 店をやる。今日は暇。
 吉田さんから床棚用のテーブルを借りる。

 9月2日
 朝五時から釣りに行き、飯を食ってから鈴木と英生と三人で霞ヶ浦へ行く。
 結局、ワカサギ2、ハゼ3 計五匹だが、当地へ来てから始めて釣っただけに愉快だった。
○ 英生が万年筆を拾ふ。
○ 大町の床屋今日主人が帰って来たらしく、大掃除をしてゐた。
  かうして次第に、うちの店も駄目になるのだ。
  兎に角、最善をつくして、後は天命を待つあるのみ。

 9月3日
 徒歩で稲吉へ行く。
 小麥壱俵四百五十円、白米、大豆、大麥、馬鈴薯等で合計五百二十六円の買物をする。
 その他に予約として 小麥 壱俵  大麥 半俵  大豆 二斗  小豆 一斗 栗一俵を買付けて来る。
 是で向ふ壱ヶ年の主食糧は確保出来た訳だ。
貯金は、遂に千円餘となって了ったが少なくとも壱ヶ年は、餓死をまぬかれた。
 その代わり、是からの生活は、工場の収入だけでやって行き、店は、---恐らくもう是からは百円足らずしか取れまいが、それは貯金して他日にそなえなければならぬ。
 ○午後 鈴木と釣りに行く。二時間で三匹。

 9月4日
小雨。 常陽銀行で三ヶ月分の利子三十五円六十銭取る。
 郵便貯金千二百円下げる。
 理髪椅子兼用の安楽椅子八十円で註文する。
 午後から、釣りに行く。今日は針を小さく、えさも小さくしたので、十五匹程釣れた。

9月5日
夜、家中で”男”を見に行く。 トリックが中々上手だ。
文化映画のやうなもの。

9月6日
 200CC口返し三百八十本やる。
幾らかコツが解って来た。
 彼も人、我も人。あらゆる困難を克服して、早く腕を完成させたいと思ふ。

9月7日
 二十瓦口返し五百本の自信つく。
 三時ごろから五瓦をやったがとても楽だ。口返しも大分熟練した。
 稲吉へ十二三日頃、取りに行くと云ふ挨拶状を八日付けで出す。

 9月8日
 午後から瓦斯停止。前沢君とおふくさん、おけいさんと三人で酸素を取りに行く。
畠のなすを盗んで発見され冷汗をかく。
 夜、家中で”婦系図”を見に行く。つまらぬものなり。

9月9日
 昨夜半から下痢。暑さも酷しく、ふらふらとなる。
 夕方、下痢やや治る。

 9月10日
 今日、正式開業の決意をして君子を組合長の所へやる。
最初は難色を示したが、それでも色々と助言を與えたさうだ。
 現在の方針と心境。
 一、自分の名義で正式開業をする。
一、現在同様自分は工場、君子は店をやる。
 一、店は出来る限り、金をかけず、造作は将来、取はずして他に利    用出来るようにする。

9月11日
 先日註文した理髪椅子今日出来て来た。
八十円也 代書へ行き書類を作る。 組合長の所へ煙草を持って行く。 吉田さんから長椅子を譲って貰ふ約束をする。

9月13日
 時々小雨。
 稲吉へ小麥を取りに行く。
 10日前に四百五十円だったのが、今日は六百三十円に騰がって了った。癪に障ったが仕方ない。
涙を呑んで買ふ。
他に馬鈴薯四貫。 行きがけに大工さんに造作を頼んで来る。
 丸尾と兄から手紙来る。返事を出す。

9月15日
 一昨日から来た小麥に黒い小さな虫が一杯発生しているのを発見して、とても驚いて了ったが、人に聞くとそんな事はありがちの事で、太陽に当てればよいとのことでホッとする。
 吉田さんから中古の椅子を四十円で買ふ。
又、バケツ二十円で譲って貰ふ。
 常陽銀行の特殊預金拂戻の申請をする。

9月16日
日曜日。
工場は今度から第一と第三の日曜が公休となる。
大工さんの所へ行き、研物をしてゐる内に客が来て午前中店を手傳ふ。
午後から店のテーブルを造る。
 夕方、椅子屋へ行き、理髪椅子を又一個註文し内金四十円也を支拂ふ。
 小麥をひいて、粉をつくる。中々手のかかるものだ。
 辰雄から手紙来。返事を出す。時々手紙が不着となってゐたらしい。
9月17日
 家中で映画へ行く。”大久保彦左衛門””土俵入” 一はロッパ、一は榎健。共に馬鹿々しきもの。
 二本建てのせいか、終わって九時。ヘトヘトに疲れた。

 9月18日
 颱風模様。
工場停電にて晝過ぎに早引け。
 麥つき。店の手傳ひ。
 夕方、交番から営業許可の調査来。

9月19日
今日、市役所へ行き、寄留届けを済ます。
昨日の風で壁が落ちた後を修繕する。
 今迄見る度に憂鬱だった壁が、やや落着いた。
 三年は兎も角住めると云う感じだ。

9月20日
 國立倉庫へ疎開衣料を引取りに行く。
 東京の復興は案外進まず電車から見た富坂は相変わらずの焼野原だ。
点々とした乞食小屋のやうなバラックを見てゐると、何と無く涙が出て来る。
と同時に、現在の田宿の住居が有難く思へて来た。
 兎も角も、二三年は、土浦に居る事に、気持画定まった。
 罹災以後、丁度五ヶ月。
 店もやっと正式なものとなりつつあり、
 畳もどうやら入りさうだし
 食料も向ふ半ヶ年は確保出来たし 炊事用具、文房具迄、どうやら間に合ひ、
疎開衣料も無事歸るし 生活の再建 此處に完了す!と言ふ可きだ。
 思へば実に感慨無量である。

9月22日
 交番の巡査来り、天井もはらねばならぬと云ふ。
段々事が大きくなってきた。
 前原さんから旧式の電球を借りる。

9月25日
 今月始め戸津川へ香典を送ったのだが今日に至っても、返事が無いので、問合わせの手紙を出す

9月27日
八時半頃、酸素が無くなったので、仮病を使って帰って来る。
午前に1時間程釣りに行きえび十匹程取る。
 午後、おふくさん来る。 夕方、順子を連れて又釣りに行く。

 9月28日
 今日も会社を休む。 午前中雨強し。
 特殊予金千八百円払戻許可となる。

9月30日
工場は日曜で公休。
 朝飯前に釣りに行き、十匹程釣る。
 店多忙。夕方から又鈴木と釣りに行ったが今度は一匹しか釣れず。 兄よりかねて依頼の本「久保田万太郎」「志賀直哉」「田山花袋」「室生犀星」「長興善郎」送り来る。
 嬉しさ云はん方無し。
 吉田さんから、電球わけて貰ふ。是で夜業が出来る。
ふとん屋さんから、店の座布団用綿を呉る。
 人の行為をかうして次々に受ける時、泌々生甲斐を感じる。
 是で店の造作が出来上がり、許可が下りた時、更生生活の完了と云ふことが出来る。
ああ、思えば感慨無料である。


■■ジッタン・メモ
当時、すざまじいインフレと闇価格が横行していたようだ。
「 東京闇市興亡史」(狩野健治編 双葉社)に生活の一端を示す数字があったのでメモをする。

1945年 10月
 白米一升 70円(基準価格 53銭)
 さつま芋 一貫匁 50円(8銭)
 牛肉 100匁 22円(3円)
 砂糖一貫匁  1000円(3円79銭)
 ビール 1本20円(2円80銭)
 清酒2級一升350円(8円)

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