ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕光男終戦日記(5) 昭和20年8月

2006年10月21日 | 昭和家庭史
8月1日
 今日は夏らしく暑い。
 午後から待望の酸素入る。仕事が面白い。
 南瓜のおやつを持って行く。

8月2日
午後から、佐野子、飯田方面へ”外交”に行く。(注1)
j時間が悪いのと、相手がうろんに思ふのとで、予期に反して失敗。
ヘトヘトに疲れて帰る。
今日の失敗で自分は色々教訓を得た。
それだけでも意義がある。
結局は現状維持---。是が神の私語であらう。

8月4日
岡田さんから、馬鈴薯六貫五百買ふ。
綿屋さんから同じ十貫(一貫五円)買ふ。 他に前原さんからトマト七円、南瓜六円(各一貫匁)客からトマト一貫匁十円で買ふ。
 合計野菜だけで百十三円也。
是で向ふ一ヶ月はどうやら支えられると思ふとうれしい。

 ○一家の文字通り光明であった二階の電球が切れて了った。
自分達の生活がとたんに暗黒なものとなって了ったのだ。
なんのうるほひもない、多忙と疲労そのものゝやうな晝の生活から開放されて、夜の明るく楽しい生活は、遂に昨日で最後となって了ったのだ。
 何だか、生きてゐるのが実に厭になって了った。
仕方がないので前住者の残して行った腐った魚油をともして、一夜を過す。
然し、それをつけるマッチが愈々乏しくなって了った。
 ああ、悲惨な生活!!
 東京では米が五十円馬鈴薯が二十円ださうだ。
 壕生活.....食糧難.....それを考えれば、我々の方が幾らか、恵まれてゐるのかも知れぬ。
少くもさう思って諦める可きだらう。

 8月5日
たった一つの階下の電球が又も切れて了った。
 あゝ、実に情無い。
所が実に救う神もありだ。
客が古電球を一つ持って来て呉れた。
昨日の馬鈴薯と云ひ、ほんとうに地獄で佛と云ふ感じだ。

 ○夜、大空襲。今夜こそかと覚悟したが無事だった。
  然し時間の問題だ。

 8月6日
吉井所長から五十燭電球を貰ふ。
自分達は、愈々となると、きっと道が開けてくるから不思議だ。
矢張り平常誠実を以って暮らしてゐるからだらう。

 8月7日
瓦斯が止まったので、道具棚を造ったり将棋を指したり、霞ヶ浦へ行ったり一日を暮らす。
明日より瓦斯が良い日は残業する事に申合せる。
 鈴木より現住所立退の相談あり。
自分も考えてゐた事故諾す。
 鈴木に直して貰って今夜から二階の電気がつく。
この電球が切れる頃、自分たちの運命はどうなってゐる事やら?

8月8日
今日から夜業をやるつもりの所、午後空襲があった爲中止となる。
土浦市民この二三日、 空襲に對して極度の不安を感じて戦々恐々。 戦局の前途を考えると暗澹となる。

8月9日
毎日暑さがつゝ”く。
今日、始めて残業をやる。
夕方クラクラと目まひがしたが直ぐ治った。
暑さの爲か、視神経の疲労の爲か。
 七月分労務米として大豆一升七合。前沢君から粉一升貰ふ。
 稲吉の石塚と云う人、少しの荷物なら預かってやると云ふ。
二三日内に、頼むつもりだ。

 ○ソ聯、遂に今日挑戦せる由、軍発表あり。 あ々、恐れてゐたものが遂に来たのだ。(注2)

8月10日
一日中空襲。 ガス出ず。
一日讀書。暑さ烈し。
夜、吉田さんで風呂を貰ふ。

 8月12日
工場を休んで、蒲団三枚、梱二個を下稲吉の石塚常四郎さん方へ疎開する。
午前十時モーちゃんに車を引かせ、二里の道を約四時間かヽって到着。
 途中、前原さんの疎開先に寄る。
 石塚さんで老人の頭を刈ったり、空家へ案内して貰ったりして、案外時間がかかり、八時頃帰宅。
今夜も土浦の町は、デマにおびえ緊急避難で大変だ。
又、一方、日本が「無条件降伏」のデマも乱れ飛ぶ。
いづれにしても、国民がこんなに浮足立ってゐては、ほんとうに駄目だ。

8月14日
午後三時、工場の作業終わり、それから掃除。
 ○賞與二十円呉れる。正雄ちゃん(注3)を誘い皆で”通矢物語り”を見る。
○酒五合配給。

 8月15日
あゝ、昭和二十年八月十五日----
 大東亜戦開始後正に四年、支邦事變ボッ発後実に満八年の今日、自分は草深き稲吉の、見知らぬ農家のラヂオに依り、日本敗るの悲報を耳にしたのだ。
 思わず歯を食ひしばり悲憤の涙は、ぼうだとして頬を流れた。
 あヽ、日本敗る。 あヽ、二千六百豫年、サンとして世界に輝いてゐた万邦無比の日本歴史はこの日、この時、遂に敗戦と云ふ永劫に払ふ事の出来ぬ汚点を残したのである。
誰か今日あるを予期したであろう。
 天皇陛下の御胸中は、誠に、誠に申すも畏し。
 「後につづくを信ず」の一語を残し、従容としてその身を敵艦に粉砕さした特攻隊の諸勇士の霊魂はこの事実を何と見るであらうか。
 愛しき吾子を一人ならず、二人、三人、國に捧げた多くの人々---。 家を焼かれ、妻子に死別した何百万の罹災者 只、只、勝利の日を信ぜればこそ黙々として今まで、あらゆる苦痛を忍んできたのでは無かったか。
総ては水泡に帰したのである。
あヽ、過去八年間の尊き幾多の犠牲は遂に、永劫に酬はれざる悲しき犠牲となったのである。
戦争は終わった。 日本は敗れた。
今後来る可き、敗戦國の民として、我々に課せられたる荷の如何に重く、如何に惨憺なるものであるか。
然し乍ら、我々は日本人である。
雑草を見よ。 踏みにじられても、踏みにじられても、後から後から緑の芽を出す雑草。
コンクリートの僅かな割れ目からさへ、あざやかな新緑をのぞかせてゐる雑草。
鐵道線路の、赤錆の石塊の中から、勢いよく顔を出しゐる雑草。
それ等の雑草は、周辺にある森や林の大木と同じやうに、同じ太陽に浴し、同じ雨に打たれ、同じ朝つゆに濡れてゐる。
 引抜いても、踏みかためても、雑草は枯らす事は出来ぬ。
我々はこの強じんな雑草に学ぶ所が無くてはならぬ。
 然も、神の意思は、自然の奇蹟は、何百年、何千年の後この雑草を変じて巨大なる樹木に変ずる事、無きにしもあらずである。
 おゝ、我々はその奇蹟を待たう。
何時の日にか、その奇蹟の現はるヽのを楽しみに雑草の如く、強く、強く、生き抜かうでは無いか。(再録)

8月16日
流石に昨夜は安眠出来なかった。
 何となく頭が痛い。
ガス場の懇親会をかねての計晝通りやる。
 配給の酒を持って持って行ったので、會が終わる頃には皆の顔色にやヽ生気が出て来た。
 ともすれば嘆息が出る。

8月21日
毎日酷暑がつづく。
 今日、工場作業、七時から四時マデ。
青2CC、口返し六百四十本。  

    × 今日から燈火管制解除となる。
    あヽ、勝利の日の燈火管制解除であったなら---。  

  × 君子と順子、田中へ行き馬鈴薯三貫、きうり一貫匁買ひ出して
    来る。  

  × 店、この二三日暇。敗戦で國民の気持が沈んでゐる爲だらう。     應徴士の歸家、男子就業の禁止令等で、又、床屋が増え一方
    失業者續出で、店も是から暇になるのは当然だとせねばなら
    ぬ。
    是から、又、永い永い暗黒の生活だ。

  × 四、五日前から、夜は虫の鳴声が聞える。 淋しい秋!

8月22日
風雨。やヽ凉し。 時計、七日ぶりで直って来る。
 工場で、干魚、石ケン、紙、配給。
 疎開衣料の件、今日、國丘へ照合する。
 夜に入ると暴風雨となる。

 8月23日
今日も、暗雲低迷。
店、暇。
 工場はやはり閉サするらしい。
折角注射筒の熟練工たらんと努力したが、水泡に歸すかと思ふと、実に残念だ。

8月27日
殆ど一日中かヽって、古箱利用で、机、本箱、茶箪笥を造る。
 カンナを使わず、頗る素朴なものではあるが今日からの二階の生活に、一脈の潤ひをもたらした事はたしかだ。(注4)

 8月28日
往復徒歩で稲吉へ疎開荷物を取りに行く。
モーちゃん、遅れて来たり、夕方帰り途に街道で會ふ。
八時半荷到着。

8月29日
石塚方で家中の調髪をやる。
白米の晝飯を御馳走になる。礼金五円。煙草。キセル。
 明日より四日まで、少しのんびり出来る。
かねての願望通り、スケッチ(注5)、釣りに依り、セン塵を洗ひ流したいと思ふ。

 8月30日
昨日の午後から胃腸の具合が悪かったが、今日は一日中、寝て了った。
胃腸ばかりでなく疲労もあるらしい。

8月31日
今日はふらゝし乍ら四時近くまで店をやる。
 十六円也。
 今月は食糧だけで三百円もかかったので、生活費合計五百三十円もかゝった。
日本の運命も是までか------。


■■ ジッタンメモ (注)記
 (注1)”外交”
日記上部の欄外に農村出張とある。
床屋の出張だったのか、研ぎ物のそれだったかはわからないが、いづれかのことと推測。
光男は愛想の良い顔ではないのだから、大変だったと思う。


(注2)当時の動き
(1945年 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (昭和20年 から)

当時の年表
# 8月6日 - 米軍による広島(原爆ドーム付近)へのウラン型原子爆
        弾(通称:リトルボーイ)投下。
# 8月8日 - ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告
        し、満州への侵攻を開始する。
# 8月9日 - 日本で断続的に終戦の方法を巡って御前会議が開催さ
       れる
# 8月9日 - 米軍による長崎へのプルトニウム型原子爆弾(通称:
       ファットマン)投下。

長崎原爆
長崎への原爆投下への閣議決定 (国立国会図書館議会官庁資料室 資料より )

昭和20年8月9日 閣議決定  
敵ノ新型爆弾使用ニ対処シ急速ニ之ガ対策ヲ立案審議セシムル為左記ニ依リ新型爆弾対策委員会ヲ設置ス
記  
一、本委員会ハ之ヲ内閣ニ置ク  
二、本委員会ノ構成別紙ノ如シ  
三、本委員会ハ主トシテ左ノ事項ヲ担任ス   
    (1) 被害情報及戦訓ノ総合整理   
    (2) 防衛対策ノ樹立   
    (3) 敵爆弾ノ性能、製造能力等ノ判断   
    (4) 国民指導方針ノ立案 四、本委員会ハ必要アル時ハ委員長ニ    於テ部会ヲ設置スルコトヲ得 五、本委員会ノ庶務ハ総合計画     局ニ於テ之ヲ掌ル 備考  本委員会ヲ原委員会ト通称ス (別紙     省略)

(注3)正雄ちゃん
吉田正雄さん。看板屋のご子息。
絵画に異才あり、後に画家として立ち、土浦の名士となった。
吉田さんの家が前向こうにあり、正雄さんは絵が好きだった光男 を慕い、光男からデッサンやスケッチなどのアドバイスを受けていたらしい。
 『二科70年史』によると正雄さんは1957年(昭和32年)、第42回の二科会賞を受賞している。
当時、絵のプロを含めた愛好会「浦水会」があり、我が家でその「祝 う会」をやったことを、小学5年生だったジッタンは覚えている。
この年、姉が東京巣鴨の高城へ嫁ぎ、この1年後に父親の光男は急逝した。

(注4)古箱利用の大工仕事
 古箱利用で作ったものは机、本箱、茶箪笥にとどまらない。
大型洋服ダンス、観音開きの仏壇、座卓(真ん中が七輪が入るように工夫されていたもあった) 将棋盤(脚付きの本格的なもの)と、すべて手製で作り、また作らざるを得ず、この仏壇は60年後のいまもジッタンの家に現存していて、供養の日常である。

(注5)願望のスケッチ
光男の スケッチ習作がいつごろからかは不明。
光男は石井伯亭画の模写を通じ徹底して学んだとのことで、現存している水彩画も、構図がきちっとした写実的な感触を受ける。



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