ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕 光男終戦日記(14)  昭和21年5月 (完)

2007年05月29日 | 昭和家庭史
5月1日
 店を始めて今日で満1年だ。
 智生、今日は大変元気となる。

5月5日
小雨。うすら寒し。 白ズボン配給。
 午から農場の方へ”田にし”を獲りに行く。
新案の渦巻き網具合良く、たちまちバケツに一杯獲る。

5月6日
辰雄に近況見舞を出す。
 夜、おふく、おけい遊びに来る。
 
5月7日
 50の型吸子を止めて見る。案外易しい。やれば何でも出来る事が解りすっかり自信がついた。
君子買出しに行き、大豆五升、馬鈴薯四貫買って来た。
東京にゐたら、思ひもよらぬ買出しぶりだ。つくづく、土浦に来て良かったと思ふ。

5月8日
 工場、半日停電。
 一週間前から胸に鈍痛をあたへ、昨日からそれがとても痛み出したが、東京堂で買った黒い薬をつけたら今日は殆ど治って了った。
 店、今日は三十三円。
去年の今日、交番から第一回の干渉を受けたのだ。感慨無量だ。

 5月9日
 午後、ガスが止まったので皆で高津の山へ行く。
トクサに似た草をとって来る。

5月10日
 山梨の丸尾よりお鈴さんの一周忌の案内来る。
家中揃って出京の返事を出す。

5月12日
 四時起床。曇りで薄ら寒い。
 農場地から桜川と方々へ釣り歩いたが小鮒一匹。
 八時半から六時まで店をやり、四十七円かせぐ

× 今日は吉井工場へ入った記念日だ。 去年の今頃の、不安に満ちた生活を想ふと、ともかくも、現在工場と店を持ってゐる事は心強い。然し、最近は工場も時々、ガスが止まったり、停電があったり、色々困難続出の状態だ。
最悪の場合、店へ帰って理髪師として全力を傾注してい行くまでだが、希はくば、飢餓突破までは現状維持で行きたいものだ。
 「更正日記」をつけ始めてから満一年、工場へ入った記念日の今日、丁度紙數もつきたので、今日を以って筆を擱く事とする


*この時期の年表から
5月1日     メーデー 11年ぶり復活
5月3日   極東軍事裁判始まる。A級戦犯28人出廷

5月12日  東京・世田谷区民による「米よこせく民大会」の参加者が
       皇居へデモ。赤旗が初めて坂下門をくぐる。

5月19日 食糧メーデーに25万人参加。「朕はタラフク食ってるゾ。
        汝、臣民飢えて死ね」のプラカード登場。不敬罪で逮捕。
       最後の不敬罪事件。

5月     GHQの指令により、軍国映画2万本を焼却。戦争モノは
       ゼロとなる。
             (昭和・平成家庭史年表 下川 耿史 
       家庭総合研究会編纂  河出書房新社より抜粋)

■■ ジッタン・メモ
「貧しき厨房」と題した絵が、玄関の内壁にかけてある。(写真)
これは1955年(昭和30年)に光男が書いた我が家の厨房だ。
 若いときから絵筆を握ることは好きで、石井伯亭の絵を好んで模写し、独学でその画風を学んでいたという。
 「伯亭の絵によく似ていますね」とも言われ、のちには土浦で絵を描く人々と一緒に街頭展や我が理髪店の店内を使って作品合評会が開かれていたことを思い出す。

 昭和30年当時、飯は石油コンロで炊き、煮炊きには七輪を使っていた。
毎朝、消し炭壷から炭を拾って団扇で火を起こすのが小学生だった私の仕事だった。
 当時、水道などはまだない。
裏の戸を開けて80メートルほど離れた跳ね釣瓶の共同井戸から水を運び、汲み置きして炊事に使っていた。

 この絵を描いて2年後の昭和32年1月8日に光男は直腸ガンで逝った。
 東京での戦災空襲から土浦の地で亡くなるまで12年の歳月が流れている。
かって、光男は全国からNHK(JOAK)が全国応募したラジオドラマに手を挙げ当選作になったこともあり、若い時代は文芸誌「嘴」同人誌でも小説らしいことも手がけていたこともあったが、世帯を持ってからはその夢を捨てた。
 まずなによりも、生活人であり家庭人であった。
 その中で、身の丈にあった余暇を探し愛しんだ。
 読書も、絵も、釣りも将棋もすべてその生活範囲内に留めた。
 終戦直後の生活のこともあって、洋服ダンスから仏壇まですべて手作りで作り上げた。
 母や姉が食後に繕いものをしている間、せがまれて直木三十五などの本を朗読して聞かせていた。
当時ラジオもテレビもない。
 町内のこどもたちを集めて理髪の閉店時の白幕を使って家で幻灯会を開いたり、お寺の本堂を舞台に「野良猫の恩返し」という台本を作ってこども会の手助けもしていた。
敗戦の焦土から昭和30年代に向かう時代は、義侠心、人情、自己犠牲などがまだ失われてはいなかったようだ。
 謙虚に誠実に、質素にして貧乏を恥じず、無欲恬淡に生活の日々を送った父親の姿は懐かしい。
 私は、光男の年齢をはるかに越えて生き、5人の孫を持つ年になりながら、いまだにその父を越えた生き方はできていない気がする。
 父、光男に心からの畏敬をこめて。
                        (2007年5月25日 完)


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