日本のような発達した社会で忙しく生活していると
いつの間にか効率や理屈で物事を考えてしまうようになっていたりする。
理屈じゃなく感情はどうなのか?
逆に感情ばかりが先走ってしまう場合もある。
理性と感情のバランスを見つめる必要があります。
バランスがとれていると自分自身も冷静に
物事を見ることができるよう気を付けられるのではないでしょうか?
何事も中道をとること。
一日の終わりにでも見返してみるのもいい。
テレビやネットなどの影響力は凄いものがあります。
いつからか分からないけれど、1つが攻撃すると一気に攻撃が始まります。
良いときは誰も彼も、何もかも素晴らしいと褒められまくっているのに
一寸先は闇とはよく言ったもので何かの拍子に、
何かの時期から批判される対象に変わってしまいます。
いつもそんなネガティブなものばかり見せられていると
みんなもそんな風潮になってしまうのです。
何処もかしこも、一斉に批判やネガティブなことになるのは
いかがなものかと感じてしまいます。
何かしがらみが隠れているのかな?とも見えるし
裏がある?もしくは良いときに天狗になってしまう?
こともあるかもしれません。
でも、天狗にしたのは回りのせいでもありますね。
それなら、静かにほっておけばいい・・・
私たちの周りのいじめや悪口もそうですが
ネットやテレビで多くの人の意識が向いてしまうのは
とても大きなエネルギーになってしまう。
一斉に、多くの見知らぬ人も含めて
ネガティブな思いを一点に流すのはとても危険なことでもあると思う。
もちろん好きになれない人や気に食わないこともあるのは普通のこと。
でも、同調者探しをする必要も、
みんなで一緒に悪口をいうなんてことをする必要はない。
自分が嫌いだと思うなら、自分の中でそう思っていればいい。
いつまでも、陰湿にネガティブさを垂れ流しにするべきではない。
いつも、人のいいところだけ見て嫌いだとかいう気持ちを
もつべきではないし、持ってはいけないとは思わない。
偽善者になるとその反動も激しくなるものです。
好きになれないのは仕方がないこと。
嫌いな感情があるのに押し殺して
好きなふりをすることが良いことだとは思いません。
ただ、くだらない噂話や風潮に
自分まで参加しないようにしたいもの。
人に対しても、物事に対しても
風潮に流されたり影響されるような単純さを見直す
必要があると感じるのです。
流されやすいのなら、あまりそんな情報は見ないほうが良いかもしれないし
見るのなら幅広く見て色々な角度をつけて情報を取り入れたいもの。
外の出来事に話題を作るなら、
自分自身の話題を提供したらいいのではないでしょうか?
建設的な話しをするほうが、
きっとその場のエネルギーも良い流れになるはず。
見たり、聞いたり、ましてや自分の中から出るエネルギーは回りに、
自分自身に影響するので気をつけたほうがいいですね。
近頃は沢山のセミナーや講習会などがあります。
経営、自己啓発、恋愛力など様々なものがあるうえ
自分でネットを使って何でも探すことができます。
マナー、話し方・・・沢山あります。
最近は、周りでも経営、自己啓発の話は聞くけれど
モテる女性になるための講習会に行った人の話も聞きます。
モテる男性になる、というのも聞いたことがあります。
全て高額!!
何十万しても、人が集められるから開催できるのですよね・・・
びっくりします。
誰しも愛されたい。
でも、愛されることも愛することも
人の数ほど色々な形があるような気がします。
根本的な「愛」と言うものは同じだとしても
愛に付随している部分も、それぞれの感じ方も違うと思うのです。
例えば、お仕事で異性をもてなす必要があるのなら
マニュアルも必要かもしれません。
少しの時間、相手を楽しませることや心地よくしなくてはいけません。
だからといって、プライベートが皆満たされているわけではありません。
セミナーにいって、本当の愛が見つけられるのでしょうか?
何とも色々な仕事があるものですね。
本当にこの手のもの
何かを辞めようと思うとき、
考えて考えて決断します。
慎重に考えたり、後悔しないか考えたり
感情だけで今辞めたくなっているのではないか?など
色々自分なりにその時の感情や思考を冷静に分析した結果、
辞めるはずです。
人生や生活に関わることならより
慎重に慎重を重ねた結果の答えだと思います。
けれども、人は後で後悔をすることもしばしばあります。
「あの時、後悔はしないと出した答えなのに・・・」
辞めたときはスッキリしても、後から後悔したりすることがあります。
どうしてでしょう?
辞めたものを始めたときの動機はなんだったか?
仕事ならば「お金」「好きなこと」
恋人や結婚の動機は様々なので一概に言えませんが
「愛」や「お金」が一般的だと思います。
などなど、動機があってはじめているのだと思います。
辞めた後に、この動機となっている部分が満たされていなければ
やはり後悔の芽は育ってきてしまうのだと思います。
少なくとも、辞める前は今より満たされていましたよね?
「後悔しない」で済むのは
やはり動機となった部分が今、満たされていなくてはいけないと思うのです。
これが難しいのですね・・・
きっと、その人の人生の課題でもあるからなのだと思います。
「お金」・・・努力もしたのに、いつまでもいつもお金に困っている。
「愛」・・・・いつも振られてしまう、浮気される。
きっと、その部分を学ぶ必要があるのでしょう・・・
自分では色々な手を打って改革してるのに
やっぱり、同じような結果になってしまい
いつまでも、終わったことを悔やんでいたり
自分で出した答えも後悔することになる。
後悔しないようにするには、
自分の感情の中にある「理想の動機」も見直さなくてはいけないのかもしれません。
それぞれの動機も形が違うはずです。
お金の額や稼ぎ方。
愛の形や愛の意味。
1つのものに関わることを
色々な角度から見て考えてみる・・・
自分の弱点や失敗している部分を見直して
チャレンジしていきながら学んで、
本当に解決したときに後悔もしなくなるのかもしれません。
後悔の中に、自分の学ぶ必要のある要素が
見つけられるような気がします。
先日、知人と話していて心のそこから思ったこと。
「人生の願望って誰が叶うの?」
良い人、嫌な人、欲深い人、謙虚な人、傲慢な人、慎ましやかな人・・・
どれをとっても、夢を叶えられる人は叶えられる。
これは客観的に見ていて思うところで、
内心は「どうしてあんな人が・・・?!」と思うことも多々あります。
でも、きっとこれは人間の目線からみて
良い人だったり、嫌な人だったりするわけで
大きな目線からしたら関係のないことなのかもしれません。
欲深い人ほど心の底から「願望を叶えたい!」と強く思えるのかもしれないし・・・
願望を叶えるのに謙虚なんていらない。
ガツガツやってみるだけやれば良い。
それでも、もう無理と思うのなら手放してみる・・・
ここがポイント!!!
自分の願望に妥協せずにやるだけやる。
でも色々な事情からもう無理かもしれないと感じたら手放す。
妥協する必要は無く、
望みが叶わないのなら諦めるくらいにしがみつく潔さをもつ。
それぐらい望みに向かっていくことの本気さ・・・
そこが大事な気がします。
そうは言っても、心の底からガツガツいくには
相当な自分への信頼がなくてはできませんね。
本当に欲しいものには、
心の底から欲を出してみても良いのかもしれません。
でも、手を引くべきときは手を引くことで
自分の人生を悲観的に過ごし無駄にしないということ。
この手を引くことが出来ないと、
ただの苦痛になってしまいますからね。
やるだけやった、と思えることが大事なのかもしれません。
とても難しいことだけれど・・・
「自分を信じる心」
これが全てに言えることのような気がします。
やることは沢山あるのに、日々やろうと思いつつも
何もやらずに過ごしてしまうこともあると思います。
やった方がいいくらいのものだと、
やらないからと言って困りはしないから・・・
そんな思いでウダウダななっているのなら
思う存分その中にいればいいのかもしれない。
本当に、やろうと思えなければできないのだから
できないうちは自分の中の焦りもそれほどでもないのでしょう。
そんな自分の思いに溺れてしまってはいけませんね。
どうしてやった方がいいのかよく考えてみると
本当はやる必要もないのかもしれないし
本当にやった方がいいのかもしれない。
動機をしっかりもって、
少しづつ続けることを目標にした方がいいのかもしれません。
急激に目標を達成することを考えて失敗するより
少しづつ目標を目指していく・・・
そんなゆっくりでもいいのではないでしょうか?
ウダウダしているくらいなら、少しづつから始めてみる。
よどんでしまうより、なだらかでも動きがある方がいいに決まってますよね。
「もし・・・」別の選択をしていたら、今はどうなっているのかしら?
人を見ていても、同じように感じることはあります。
一つの選択が人生を大きく変えてしまう・・・
でも、そんな想像は無意味なこと。
「もし・・・」はないのだから。
今ある現実だけが、すべての選択の上になりたっているのです。
「もし・・・」も人生の中に交差していることの一つだったけれど
その時の自分の選択は「今ある」選択をしたわけですね。
だから、一瞬一瞬の選択はその時の自分に沿った道なのですから
「もし・・・」はないということです。
一つの経験をした後だからもう一つの選択も考えてみたくなるのです。
他人のこと、自分のこと、すべてに「もし・・・」はなく
その人が選択した道を歩んでいるということなのでしょう。
穏やかな、気持ちの良い天気ですね~
天気は人間の感覚に大きく関わっているようで
穏やかな天気は私たちも穏やかな気分になるような気がします。
私もモヤモヤしたものが随分なくなっているようです。
思考や感情に何か薄い膜のようなものがかかって
ぼんやり見えるのにしっかり見えきれないというとき
どんなに見ようともがいてもストレスが募るばかりです。
その時が来なければ見ることはできないものもあります。
すっきりする日も、曇りの日も嵐の日もあります。
いろんな天気を満喫すればいいのですね
肉体
魂が肉体に宿り、肉体が役目を終える・・・
どのように肉体を使ったかが役目を終えるときに始めて分かるのでしょう。
突然、「着ぐるみと同じ」だと以前に聴いたことがあるけれど
それはとても的確な気がします。
肉体だけに執着して、老いることを怖がる人が多い現代。
肉体は時が経てば劣化していくのは全てのモノと同じことです。
20年前に買った洋服を毎日来ていたら傷んでくるもの。
そう考えたら肉体の老化は当たり前です。
それよりも、役割りを果たせるだけのクオリティーを保つことが
自分の責任としてあるのかもしれないと思うのです。
自分が使いずらいのなら不便ですよね?
もっているものを常に清潔にし、使いやすい状態にしておくべきなのでしょう。
これが自分の「ツール」としたのだから。
その「ツール」を活かしながら使う・・・
活かすのは自分自身の役割り。
その自分自身が常に心地よい状態でなければ、
きっと活かすこともできなくなってしまうと思う。
そして、魂が十分な体験をし終えるよう
魂に使わせなくてはいけないのだと思うのです。
私たちの生活はあまりにも忙しないものです。
新しく興味を引くもの、情報、いろいろなツールもゲーム、
テレビにニュースに本、音楽などいつでもどこでも
常に目や頭は外の情報ばかりに注目している。
全く何もしない時間は一日のうちにどれくらいあるのだろう?
一週間のうちには?
一か月のうちには?
日々の生活には何も持たず、何も見ず
ただ時間を過ごすことがどれくらいあるのだろう?
ほとんどない。
もしくは、全くないと思う。
逆にそれらの自分のツールの何かを忘れたときに
とても焦ってイラつくかもしれない。
ほぼ何かをしていることに対して依存的な感じが強いかもしれない。
何もしない時間がどれほどの洞察を得られるのか、
どれほどの内面に繋がる機会を得られるのか・・・
ここにほしいヒントが絶対的にあるような気がします。
15分ほどの短い時間を充実させようとしても
本当に集中し続けるのは難しい。
前に長い瞑想をしていたときもあったけれど
今はやっていません。
長い時間は必要ない気がするので・・・
忙しいのに無理に長い時間を費やして中途半端になったり
やめてしまうより中身(まだできていません)。
その大事さを改めてなんとなく感じた日でした。