★ Tのゆるゆる日記 ★ 

人生どこへ向かうのか?
日々、感じたことを通してみえること。

しあわせ

2024-04-27 | 最近おもうこと
人は幸せなこと、満たされていることがあるのに
一つの不幸や不満に意識を向ける。
向けるどころか集中するぐらいだ。
そうやって1日を、人生を無駄に使ってしまう。

そこから逃れられないわけでもないのに
自分で逃れようとせず、自ら入っていこうとする。
関わりを断ちたいと言いながら
断ちたくない思いが勝っていく矛盾もある。

自分がどこに意識を集中するかでも見えかた感じ方は変わる。
些細なこと
遠い昔の古傷
そんなことまで意識を向けようとする。

日々の幸せに感謝し意識を向けよう。
幸せも、不幸も自分で決められる。
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大人も子供も年齢の違いなだけ

2024-04-26 | ちょっと、ひとりごと
10代、20代
またはとても年上の人を見るとき
親や他人でも自分よりずっと年上の人に対して
「しっかりした大人」
「全ての悩みはすでに卓越して素晴らしい答えを持っている」
「しっかりした常識と包容力を持っている」
「物事の多くを知っているのだろう」
と見たり、勝手に期待を込めた見方をしてしまう。
ひどい時には私の方がずっと若いから甘やかしてくれるとまで
意識、無意識に関わらず思っていたりもする。

これは完全な誤解。
単に年を取っただけのことで、
知恵がついたわけでも、
人間的に深くなったわけでもない人は多いのだ。

相変わらず考えていること
やっていることや自分勝手さも変わっていないもの。
だから、自分より年上の人に対して勝手な妄想をしてはダメだし
妄想される方も迷惑だろう。
失礼な態度を取らなければお互い問題はおこらないだけ。

60代以上でも相変わらず恋愛、出会いなどで悩んでいたり
実は知らないことばかりだったり
そんなものなので、若者の手前は年を重ねた分の態度をとっているだけ。
特に、自分の子供の前ならなおさら。。。

やっていることも、考えていることも、思うことも
悩みもそんなに変わらない。
人間はそれくらい同じことを繰り返す生き物なのかもしれない。






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短縮される言葉

2024-04-25 | ちょっと、ひとりごと
日本語も短縮していったり
英語も短縮していったり
何を意味しているのか分からない。

伝えるために発言、発信するなら
相手に理解してもらえる言葉を使うのだろうけれど
発信する人も、それを理解する人だけを対象に考えているのだろう。

今のところは困るわけでもないし
私は時代についていく必要もないので取り残されておこう。


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見合った運動をしよう

2024-04-24 | 日々のこと
日本は長寿国だけれど
寝たきりの期間も平均10年と言われるほど長い。

私は動ける身体を目指しているので運動はしている。
それで気づいたのは
一般的に中年以降の人向けの運動というのは
本当に本当に老人がするようなものばかりが多い。

全く人生で運動をしていなかった人、
やらないよりはやった方がいいと考える人向けなのか?
老人と呼ばれる年齢の人だって現代はもっと活力もあり動ける。
それを40、50代の人の運動で
それはないだろうと思うような簡単なものばかり。

全く運動していない人が重い腰を上げて
始めるにはいいかもしれないけれど
そんなものを続けたとしてもやらないよりマシという程度で
身体的には変化を感じないだろう。

今は寿命も長いし身体も若い。
もっともっと動けるのだから
動けるうちから少しづつ始める方がいい。
急に初めて身体を痛めたり、痛めたから始めたとなると
また出来なくなってしまうので
問題がないうちから丈夫な身体作りを見合ったもので始めるのが一番。
激しい、きつい運動なんて無理にしなくてはいいけれど
慣れてきたら少し変化をつけて運動して見たらどうだろう。








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映画の話

2024-04-23 | 映画
久しぶりにディカプリオ主演の映画「インセプション」を見た。

公開当時に見たとき興味深いと思って見た記憶があったけれど
改めて見てみると更に興味深いものだった。
多分、1回目にはちゃんと理解しきれていなかった複雑さが
今回分かったからだと思う。

夢の中の夢をコントロール現実を書き換えるのだけれど
それをより深くしていくので
話が途中からよく分からなくなったりする
場合もあるのかもしれない。

人が現実だと思っているこの現実は
本当に現実なのだろうか?
自分が夢の中にいる時はそこは現実になる。
たまに、夢の中で夢を見たり
夢の中でその夢をコントロールできることもあるので
その時は、夢から覚めた自分がそこにいて
現実を作っているけれど
それもまた夢だ。

起きた時に一瞬、
今起きたここは現実なのか分からなくなることもある。
夢を作り、夢を書き換え、現実を作り出し、現実を書き換える。。。
私たちも日常でこのようなことをしているのかもしれない。

常に目的意識を明確にしておかなければ
意識は混沌としてしまう。
または、単に日常のどこかで
人生を諦めていくことを選ぶこともある。

望む現実を引き寄せること、
歳をとることを引き寄せることも
全て自分が許容していくものなのかもしれない。

自分は望む現実を生きているのだろうか?
望む現実を生きるために
ここに意識を向け
自分がやるべきことをしているのだろうか?

興味深い映画でした。








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根気よく時を待つ

2024-04-22 | 最近おもうこと
同じ話を聞いたとしても、その理解度は違う。

自分のレベルで解釈ができるのだから当然なのだけれど
これが日常全てにおいて言えることなので
物事をややこしくさせていく。。。
社会生活をしていれば
様々なレベルの人が混ざり合って生活しているので難しい。

同じ説明をされて理解できるかできないか。
さらには、その意図をより深くまで理解する人までいる。
学校でも会社でも、さらには自分の興味のある事柄や
趣味や勉強している内容に関しても
何でも、どこでも、いつでもそんなことが起きている。

それなのに、この社会では
同じ場所で同じやり方をしなくてはいけない。
大きな視点で見れば、その差も大したことないのだけれど
私たちからしたら大きな差になる。

さらに理解できていないことも理解できない。
理解できずにいると
些細な理解さえも全て理解したかのようになり大騒ぎする。
それもまた、そこに囚われてしまう。

最近思うのは、どんなに理解しようとしても
どんなに勉強していても
その時が来ないと理解できないのではないかと言うこと。
それは個人差があり上手な説明をされても理解できず
様々な条件が揃った時にスッと入ってくるような気がする。

どれくらいの期間なんて関係なく、頃合いがあって
条件が揃わないと理解につながらないので
みんなで仲良く理解しようとしてもできない。

誰かにとって簡単なことでも
自分にとっては簡単なことではなく
土台さえもないまま積み上げることだけで
何とかなるんじゃないかと考えるけれど
やっぱり積み上げることはほとんどできず崩れてしまう。

今できないことでも
静かに土台作りを試行錯誤して続けていると
いつの間にか作り方が見えてくる時がある。
投げ出さないことが可能性を生み出す。




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作られない美

2024-04-21 | ちょっと、ひとりごと
外見と内面にギャップがある人は多い。
私もそうだと思う。

若い頃、
「育ちが良さそう」
「大事に育てられてるって感じ」
とかアルバイト先の先輩や大人からよく言われ
そう見られていることが何故かとても嫌だった。

意識的に変えていった自分があり
それとはまた別に内面の表れも混合して今の外見がある。
今はガサツで育ちが良さそうとは一切言われない。。。

そう思うと、人は一体何を見ているのだろう?
完全に内面を見ている人もいれば
完全に外見しか見ていない人もいる。
人それぞれ、勘があるけれど
自分で勘がいいと言う人ほど当てにならないものはない。
とにかく、そう言ったものもひっくるめて感じとる。

外見は自分がなりたい自分、
人がイメージする自分に近づけることはできる。
けれども、内面はそう簡単に変えることはできず
変えたと思い込もうとしてもなかなか上手くいかないものだ。
外見ばかりに意識がいき内面を置き去りにすると言うことは
人生の課題をいつまでも放っておくと言うこと。
その課題を外見に費やすことで
自分自身を誤魔化していこうとすること。

外見は他という対象があって意識する。
内面は表面的には他という対象があるような錯覚をしたとしても
実際はそこには自分自身しかいない。

人が複雑にしているだけで
根本的には全て単純なこと。。。
外見と内面、内面を表現するために外見がある。
美しさは自然なバランスの中に現れていく。












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何だか疲れる

2024-04-20 | 日々のこと
ここ最近やたらと疲れている。

私が寝落ちすることはほとんどないのですが
昨夜は夕食の片付けをした後座った途端寝てしまい
ベッドに行くにもなかなか大変だった。
昨日、今朝の朝は頭がぼんやりして
お酒も飲んでいないのに
飲んだ後のようなすっきりしない目覚めは嫌な感じだ。

昨日はやっと家の修繕の1つのトイレの便器が付き
1月から取り掛かっていた全ての修繕が終了。
大した場所はやっていないけれど
工事の間隔が毎回あくので期間がかかっていただけ。

全て工事が終わったので家の中が汚れることも無くなるので
本格的に片付けも全て終わらせて気分的にリラックスしたいもの。
「やらなくちゃ」と言う課題が常に頭にあるのは嫌なものだ。
とっととその課題を片付け憂鬱にさせるものを片付けよう。










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心が疲れたとき

2024-04-19 | ちょっと、ひとりごと

誰かにとって大したことではなくても
別の人にとっては大きなことだったりする。
いいことでも、悪いことでも。。。

心に刺さる物事は人によって違う。
いいことなら、どんどん有意義に利用して行動に移せばいい。
心が傷ついてしまったら。。。
しばらく癒す時間が必要かもしれないし
なぜ、それによってそんなに傷ついたのか
分析してみる必要があるのかもしれない。
きっとずっと我慢していた
自分の中の何かの糸がぷっつり切れたのだ。
「誰」の言動かも関わることもある。

自分にとっては「大したことではない」と思っていても
その誰かと同じ体験や感情は経験していないので
実際に自分に同じことが起こったら。。。?なんて想像をしても
単にその瞬間だけのことしか想像せず
積もり積もっていった経験や感情の経緯は想像に含まれていない。

何かが「心に刺さる」と言うのは
単に引き金に過ぎないのだと思う。
銃弾が込められていない銃の引き金を引いても
何も起こらないのと同じで
人の心も「大したことじゃない」と考える人たちのように
土台に何も積もっていない場合と
既にギリギリまで積もって身動きが取れない状態の人とでは
最後の一つ盛りで崩れるかどうかも変わっていく。

そんな時は、ゆっくりしながら
心に刺さる素敵なことを少しづつ積み上げて
少しづつ心を回復させればいい。

無理にまた頑張らなくていい。
立ち向かう必要もなく、自分を立て直す時間に使おう。





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空想と理想の違い

2024-04-18 | 最近おもうこと
人は「oooだったらな〜」と思うことがある。

「恋人がいたらな〜」
「子供がいたらな〜」
「親がいたらな〜」
「お金があったらな〜」

何かがあったら良かっただろうに。。。と。
でも、よく考えたらそれも自分にとって良いように考えている。
恋人をとても素敵な人で自分の理想するような関係を想像し、
子供は何の問題もなく素直で手もかからず理想的な関係を築く。
親はいつでも頼りになり、何の問題も起こらず
無条件の愛情を与えてくれるだけの存在で
手がかからないまま老後を過ごす。
お金で欲しいものが何でも買え、何でもでき人より優位に立てる。

本当にそうなのだろうか?
希望だから全てが理想的になっているだけで
そこにはネガティブなもののイメージがほとんどなく
あったとしても軽いものだ。
本当にネガティブなイメージは当然と言っていいほど含まれない。

単に空想ばかりしていても
その現実は手元に来ない。
理想と現実にギャップがあり過ぎ、都合のいい理想になっているから。

理想に基づいた現実を過ごしているのだろうか?
今ある現実はその理想に近づくためのものなのか?

今にしっかり根付いて生きている先に理想もある。


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