まだ、私が若い時は本当にしっかりしていないし
分かってもいないのに生意気でいい加減だったのかもしれない。
自分自身はそんな風に思ってもいないし
その時は、精一杯人生に取り組んでいた。
もちろん、今もだけれど・・・
きっと、それよりも若い時はもっと純粋で
人間について知らないことが多すぎて
驚くことも傷つくことも悲しいことも
辛いことも経験することになる。
それでも、どうしてか?という理由が
本当にはなかなか理解できない。
何度も様々な形での経験を自分自身がすることで
だんだん人間と言うものを観察することができると共に
自分自身も分かってくる。
分かるというのは、自分を理解し他人を理解し
その上で自分や他人を許す寛大さを持てる基準が理解した上に
自分自身の中で創られていくのではないかなと思う。
理解した上・・・
ここは大事なことで、普通の人は実際に経験しなければ
なかなか本当に自分自身が理解するということが難しいので
他人に起こったことは綺麗なことを言える賢さはあっても
自分自身が対処できる賢さや強さを持つことは
困難なままな気がする。
周りの人のやり方も
周りの人の言うことも気にしすぎる必要はない。
自分がその時、一生懸命に取組み
自分自身でしっかり自分の選択も
自分の行動も責任をとって周りを巻き込んだり
被害を及ぼしていないのなら全く持って
自分のやり方で生きればいい。
誰かにお金を出してもらっていたり
家族や誰かの世話になりながら巻き込んでいるのなら
その物事は一人だけの決断はできない。
誰かと共にあり、世話になるということは、
そこに共通というものや借りがあるのだから
そこからの意向にも従わなくてはいけないということ。
全ての物事には「特になることだけ」
「自分の都合のいいものだけ」と言うことはなく、
プラストマイナスが生じてバランスをとっている。
目の先にマイナスは今、見えなくても
歪みがあるものに対しては
バランスをとらなくてはいけないときがくる。
知らないものには対処できるようになる賢さを
甘えているものには自立を
個の人生が意義深く、豊かで幸せになるよう
いつでも人生が導いてくれているような気がする。
そういえば昔占い師さんにちょうど私の今の歳から
新しい人生のサイクルになると言われていた。
数年前だったりするので忘れていたけれど
何人かに言われていたなぁ。
それと今の歳から3~4年後には稼ぐらしい!?
今まで稼いだことないけど?
この新しいサイクルに入ってやっと本来の自分自身を
満喫できるようになるのだとかなんとか・・・
足を引っ張られたり何かと、
それなりに学ばされることが多かった時代から
新しいサイクルになるというのは言われるだけでも嬉しい。
何人かに言われていたのでチョッと期待してしまう。
中年以降から良くなるのも悪くない。
昨日の朝は雨上がりということもあり
気持ちがいい爽やかなスタートでした。
最近はまた仕事で忙しくなっているのでバタバタしていますが
気持ちの切り替えやチョッとした見方の違いで
心持ちも変わってきます。
若い時よりも、少しだけそんなことも
上手にできるようになってきたようです。
物事は自分自身のことしかコントロールはできません。
どんなに身近な人でさえ、自分自身以外の人を
コントロール、考え方気持ちなどを
コントロールすることはできない。
自分の外側では好むと好まざるとも
色々な物事が起こったり、それに巻き込まれたりと
何かしら影響されてしまいます。
でも、その影響はどんなものでも
自分の肥やしにすることができるし、
そのために巻き込まれたりするのかもしれない。
だから、巻き込まれたときなどでも
そのことに飲まれるのではなくて
どのようにその物事を見るのかという
自分自身をコントロールすることだけはできるということ。
外側のことを自分自身がどのように見て
どのように感じて影響され反応するのかは自分次第になる。
モノトーンに見ることもできれば
カラフルに見ることもできる。
同じような物事も、彩をつけることは自分で選べる。
せっかく同じ一日を過ごすなら彩がある外側を眺めたい。
常識、道徳など
そう言った個人の価値観に基づいたものは
線引きがとても難しい。
それが、個人の感情も作用するものであれば
とても繊細に反応する人も、
やり過ごすことができる人もいるし
たいして気にならない人もいる。
人の価値観は一緒ではなく
感情も一緒ではないから、とても難しい。
では、規則を作ればいいか?
はっきり言ってこれもきりがないのではないか・・・?
常識、道徳や価値観をある程度そろえることが
できるのなら可能になるかもしれないけれど。
常識や道徳が最近は大きく幅が開いてしまったのかもしれない。
この開きを少し縮めることができたら
もう少し基準になるものも作りやすいのかも。
個人が集団になれば、それだけ色々な価値観が出てくる。
変化するときには混沌としてしまう・・・
やはり、そんなときなのでしょうか。
新しいもの、新しい感覚。
では、古いものや古い感覚が全て必要がない
いらないようなものなのだろうか?
古いものの中から新しいものに
移行しているものがあるだけのことではない?
新しいもの、新しい感覚が全て正しくて
それに合わせるべきなのか。
古いものの延長に新しいものや感覚があるのなら
古いものの良さも残した方が
どちらモノ良いものを取り入れられる気がする。
どちらよりでも妥協しなくてはいけないわけで
歩み寄りも必要になる。
どちらもいいものがあるはず。
その良い部分は残して新しいものを取り入れる。
今の新しいものや新しい感覚も
未来には古いものになっていくのだろうけれど。
私も新しいものや感覚で良いなと思うものを
上手く取り入れてバランスを
上手くとっていけたらいいなと感じます。
物事を建設的な見方をして解決策や
これからについてを考えたり話すことは難しいのかもしれない。
何かや誰かを非難するほうが一瞬だとしても
人の気を引くことはできるし、物事を大きくみせることもできる。
それに聞く方にも分かりやすく、人からも同意を受けやすい。
でも、いつまでも攻撃ばかり続けても何も生まれない。
「だったら、こうならないようには何が必要か」
「何が原因だったのか」
「これからどうしていけば、より良くなるのか」
「いま、何をするべきか」
などなどの話しに意識を持たなくてはいけないのではないかな?
文句や批判ばかりに意識がある間は
建設的な話は後回しになっている。
個人の人生も同じ。
起こった出来事、今の状況、自分の人生・・・
全てネガティブな思考の中に留まっている間は
何も変えられない。
文句、批判をある程度出し切ったら
いつまでも自分自身をネガティブな思考に
浸し続けるのをやめよう。
自分や色々な物事が今より良くなるために
変えること、努力していく方が
明るい未来になるのではないかな?
散々毒づくのもいい。
ずっと、そうするのも有り。
でも違う未来に向かって考え、努力を始めるのもいいと思う。
起きている時間が長いと太る・・・
疲れて痩せそうなきがしますが、
太りやすい細胞が発生(詳しいことは忘れましたが)するそう。
私も2か月くらい4時起きが続いていて
2キロくらい体重が増えてしまった。
去年、落としたのに・・・
起きている分、ちょくちょく食べてしまっていたのか?
気を付けていても少しづつ食べていたのかも?
そう思って、3月の終わりくらいから
遅く見ても4月からは朝はランニングをできるだけ
するようにもしていたけれど変わらない。
昨日の登山の後にも関わらず今日は増えていた。
当面はダイエットも頑張ろう・・・
今日は山登りへ行きました。
神奈川県といえば山も海も近いのですが
私の頃、小学校では必ず大山に遠足でした。
若い時は自然に興味があったわけでもないし
山登りは好きではなく、どちらかと言えば海を選ぶ方。
だから山は遠くから見るだけで満喫。
車でドライブなら気持ちいい。
日本人として、いつかは富士山に 登ってみたいとは
思っていますが・・・
でも、今日は大山に登ってきました。
子供の時以来です。
ケーブルカーもありますが、乗らずにしっかり徒歩で。
なかなか大変な登山ですが、気持ち良かったです。
何事も自分で選んでやることは気持ちが違いますね。
良い経験になります。
もっとドスンと構えて小さなことには
スル―できるくらいになりたいもの。
残念ながら大きな懐にはなかなかなれませんが
山あり谷あり壁あり、
さまざまなことが起こるたびに
少しづつ動じないようになってきました。
最近は少しづつ自分は自分でいいかな・・・と
前より、よりマイペースでいられるように。
昔からよく「変わっている・・・」と言われるのですが
自分では何故なのか全くわからないけれど
そう言われるのも嫌じゃない。
個性個性って言いながら
みんなと同じを求める人もいるけれど
個性って考えて現れたり強調されるものでもない。
個性なんて考えたこともない。
感情論はさておき中立的な立場に立っておくことが
今の世の中では特に個々にとって必要なことだと思う。
傾向がどこにあろうと、自分はどんな見方をしているか?
そこは大切になるのではないか。
それでも自分の環境の中でしか知らない常識や
道徳的なことは必ずある。
それも、色々な面から事実をみて考えてみることも
必要になることも忘れてはいけないこと。
自分にも自分の周りにも
「そんなことを自ら好んで、進んでする人はいない!」のならば
きっと、その人は「きっと嫌々やるしかなかったんだ」
「きっと、何か仕方がない理由があったにちがいない!」
そんな風に、自分自身で勝手な綺麗ごとの理由を
わざわざ作ってあげたりする。
どんな事実でも現状の一つであることは
きちんと中立の立場で物事を「見る」必要があると思う。
そのときに無いものを知ろうとする必要はない。
どうして「知る」必要がないのか・・・?
自分の中に無い感情や理由を知ろうとしても
それを単に分かろうとするのは難しいので
分かろうとすると余計に「自分流の理由」を作ってしまう。
「事実」を「事実」として見ること。
事実を作った単にそこにあった「動機」を見ること。
単にその人の立場に立って物事を見ることはあっても
その人の代わりに様々な綺麗な理由を当てはめることは
事実とは異なる事実を作り上げてしまうことになる。
誰かほかの人の動機ではなく
そこにあったはずの個の動機と事実。
だからこそ感情とは別に、
中立でいることが大事になっていくと思う。
まだまだザワザワしたことが続く世の中だと思うので
流されたり、惑わされないようにしたいものです。