昨相変わらず眠れない日が続いていますが
そんな時もありますね。
あっという間に、7月になる。
自分自身とその外側とのスピードに
何か今までとは変わった違いがあるような気がする。
自分の感覚が変化しているのか
それはわからないけれど
何だか感じる流れが違う。
自分が望んでいる方向へ流れていけているのだろうか?
私はちゃんとやれているのだろうか?
自分勝手に「つもり」で勘違いした自己満足に
なっていないか?
時々、点検したり修正したりして
自分自身を確認する。
自分の課題を持ってまた進む。
昨夜も夢の中で何やらワサワサしていて熟睡していないような感じです。
眠りと目覚めの間のような感じで
現実?と混乱するときがある。
そんな感じで、今日の昼間は眠かった。
今夜はゆっくり眠ろう。
話しは変わって、
多くの人の中にいると知っている知らないはさておき
何だか敵意をもって他人と接する人に
関わらなくてはならない時もある。
もしくは、自分のことを理由はなく嫌いな人と関わる時もある。
もちろん、避けられるのなら最低限の関わりにすれば良い。
避けられない時は、自分の気持ちが萎縮しないようにし
こちらは敵意を向けないこと。
自分のエネルギーエリアをしっかり保つ。
気持ちが萎縮したり怖がったりすると
自分のエネルギーに敵意のあるエネルギーがニュッと入り込んでくる。
すると、ますます状況は不利に働いてしまう。
必ず、一瞬ひるんだとしても
気づいた時点で立て直すこと。
すると、不思議と妙な敵意は消える。
後から、その人のことを思い出して
またエネルギーを奪われないように…
ネトっと自分のエネルギーにまとわりついている
敵意のあるエネルギーもあるから。
その時は、意識を切り替えて
自分のエネルギーをクリーンにするといい。
昨夜は何だか夢の中でワチャワチャ忙しかった。
それも何度も歌ったり…
私の知っている歌じゃないけれど
夢の中では知っている歌。
もう一つ、何か忘れたけれど
夢の中では知っている何かを皆んなに何度も言っていた。
何人もそこにはいて皆んなに伝えていた。
皆んな楽しみながら学んでいるようだった。
歌は、数字に合わせて歌うのだけれど
確か19からだったと思う。
19の後に続く言葉があって
20、21と続いていたのだけれど
曲も内容も今は忘れちゃった。
起きてすぐは夢の中では何度も歌っていたので
覚えていて口ずさめたのに…
何か面白い経験をしていた夢だった。
1人だと意見を言えない。
1人だと悪口も意地悪もできない。
1人だと良いこともできない。
それなのに、他に同意する人がいたら
何倍にもなって騒ぐ傾向がある。
これ自体おかしい。
マスメディアも当たり前のように皆んなコレで
大人がこう言ったことをするのだから
子供も同じようになる。
文化、民族性と片付けるのはそろそろ抜け出す必要がある。
集団でいることの心理的安全性がそうさせるし
社会もそれを求めていて違ったものを省く傾向もあった。
今日まで人気があっても
誰かの一言から安心してみんなで悪口合戦。
みんなで引きずり落とす。
随分と違った見方をするものも増えてはいるけれど
静かなので悪目立ちはしない。
大騒ぎして権力を持ちたがるものは
やはり集団で安心するものばかりなので目立つ。
でも、これから集団性を強みに変化させたいもの。
民族性を強みに活かしてきたのだから出来る。
だけれど、みんな横並びにはならないことは知るべき。
それぞれを活かすからこそ良さが出るわけで
みんなが同じではない。
同じでないから劣っているわけではなく
同じにしようと考えるから
劣っているように感じてしまうのだ。
ある時期、子供のきょういくでやたら個性だと言っていた時があった。
もう、その子達も成長している。
都合で個性と言いながら
自立をしない、させない矛盾も面白いけれど
個性と身勝手の境界線は曖昧だ。
30年後、50年後
もちろん、もっと先の日本はどんな風になっているのかな。
最近、電車の優先席へ率先して座る若い人たちを見る。
もちろん、お年寄りが来ても寝たふり。
いつの間にか携帯はokになっているけれど
電車の席の中のほんの一部しかない優先席なのだから
お年寄りや怪我をして松葉杖を持っていたり
足腰が弱っている年齢層が上の人がきたら
せめて元気な人は席を立つべきだ。
それが嫌なら優先席に座るべきじゃない。
本当は優先席、それ以外何て分けずに
年配の人や怪我している人、妊婦さんなど
立っていることが大変そうな人に席を優先させる気持ちが必要だ。
混んだ時間であれば尚さらだ。
中には、元気な図々しい年配の人もいて
席を譲りたくなくなったりすることもあるけど。
私もまだまだ未熟だ…
逆に子供は元気なのだから基本的に立って
いいのではないかと個人的には思う。
イヤホンをつけ、スマホを見続け寝たふりをして
気づいても気づかないフリをすること…
時にはとっても疲れているだろうし
足が痛くて仕方ないときもある。
そんな時まで席を譲れなくても、
せめて元気な時は人に優しくする気持ちを持ちたいものだ。
周りに無関心であること、
困っている人がいても誰かがが助ければいい
自分以外のね…
何か悲惨なニュースになると可愛そうだとか
きれいごとを言うけれど
日常の中で他人にチョットした優しさも持てない人が
そんな事を思い共感できるのだろうか?
大きな親切を目指すより
日常にある少しの親切が
もっともっと日本には必要なことだと感じる。
ここ2、3日疲れぎみ…
眠い。
夏至が近いのもあるのかなア。
色々な変化が、それぞれの人生の向かう方向へ
後押ししてくれているよう。
自分の向かいたい先。
交差しているようで交差しない
同じように見えて同じじゃない
分かるように見えて分からない
自分のいる場所はどうだろう。
幾つであろうが、
人生の先に在る自分の姿をイメージしている人は
少ないのではないだろうか?
若い時は特に難しい。
早くからイメージできるなら強みになる。
年齢が上がって、周りや日常に流されて
何も自分の目標を持つ必要がないと思ってしまうこともある。
目標を見つけること自体難しいのだから
自分の人生の行く先を誰かに委ねる方が楽なこともある。
自分に向かいあって、
答えが出るか分からないような何かを探すより
日々日常に追われて見ないようにすることもできる。
10代、20代でなりたい自分を見つけるなら
自分次第で大きなチャンスがある。
モノによっては、若ければ若いほど確率も高くなる。
それでも、50代であろうが70代であろうが
いくつからでも在りたい自分を持つことができたのなら
そこに近づくことができる。
在りたい自分を持ったなら
時間を、日々を無駄にしないことだ。
未来の自分に今の自分が近づいて行かなくてはいけない。
未来から今の自分に近づいてきてくれるわけではない。
漠然としていても今に集中する。
イメージがあるのなら具体的に未来へ近づくよう集中する。
何も見たくないならそれもいい。
面倒だから避けるのもいい。
誰かに頼った誰かの未来に便乗するのもいい。
適当であるのもいい。
どちらにしても、今ある想いが
未来の自分をつくるだけ。
どの未来へ近づくのかは
今どう過ごすのかと言うことだけだ。
綺麗な満月です。
どんなに忙しかったり、人が常に周りにいたとしても
1日の中で15分くらいは自分の為に静かにする時間を取れるはず。
ほんの少しでも自分をチューニングする為の時間は必要なんだ。
人のためにばかり生きること
自分のことばかりに生きること
どちらもバランスは良くない。
一見良いことのように見えることの中にも
落とし穴もあり、特に自分を犠牲にし続ければ
それは間違っている。
ほんの少し、意識を向ける対象を変えてみること
特に自分自身の内に耳をすませる時間を持つことの
大切さを忘れないでいよう。
どれくらいの人が自分が今やっていることに
情熱を持って行っているのだろう?
いいところ、前は情熱があった…くらいだろう。
いつのまにか情熱が無くなっている。
そのこと自体も忘れてしまっている。
自分も情熱を傾けていたものがあったよね?
その情熱はどうしちゃったの?
情熱もなく、ただいつものことと言うだけで継続しても
そこに喜びを見出すことも難しくなる。
第一にそれは向上しない。
そんな当たり前なことさえ忘れてしまう。
情熱がないから必要な変化も気がつかない。
情熱を持って取り組むことが
そのこと自体を輝かせ
さらに情熱を持たせてくれる。
どれ程しっかり自分自身のことを客観視できているのだろう?
厳しく見過ぎていたり、甘く見過ぎていたり
いつの間にか態度が大きくなって謙虚に努力することを忘れていたり…
微妙なバランスを保ち続けることは
意外と難しいことだ。
それも演じる自分に飲み込まれて
本来の自分自身を何処かに忘れてしまうような
一番バランスを失いやすい落とし穴がある。
本来行きたい路はどこにある?
もっともっと、静かに内面の声を認識するべきなのに
いつも周りのペースで動いてしまうようになるのは
癖になっているからだろう。
思い出してみると、
小さなメッセージが一瞬見えたりする。
何か大事なことを忘れているときに
気づかせようとしてくれている動きがある。
一昨日、目線を下に向けたとき
丸い野球ボールサイズの白い煙の様な球が
お腹辺りから左にスッと動いて消えた…
確かに見たのだけれど何かは分からない。
最近、私のマインドが忙しくて
自分に謙虚に向き合うときがなかった。
ほんの少しの時間を持とうとしないのも
今あるマインドからきているのだから
その感覚がどう言ったものなのか見直すことが
気づきを促してくれる。