人生の期間とその中で起こる出来事や流れ・・・
時々人は大きな、とても大きな
言葉では表現できないほどの規模の話を持ち出して
私たちの人生に当てはめてもっともらしく語ることがある。
そうすると、「いつ?」と
自分の人生の期間の中で考えてしまう。
変化が起こっていてもずっと後にならないと分からないし
いいことだとかよくないことなのかさえ分からない。
それをとやかく考えること自体必要ではないことだけれど・・・
だから、自分自身の言動に責任を持つだけでいい。
他のものにそれを押し付けるのも間違っている。
古いものが新しいものに。
新しいものが古いものに。
どちらも必要なく、いつだってどちらも必要。
どちらも同じものの中にあるのに、
それを分断しようとしたり排除しようとする。
ただ融合しいけばいい・・・
どれも受け止め合うこと。
後は自分はどうありたいかを自分自身が選ぶだけ。
自分の人生を選び、
どう進むかという自分に責任をもつだけ。
夜中の一時半くらいに起きてしまい全く寝付けなくなって
二時間ほど頑張ったけれど眠れないので結局起きた。
そんな時は録画していたドラマをみてリラックス・・・
無理に寝ようとすると頭の中のおしゃべりで疲れるから
いっそ、起きたほうがいいときもある。
頭が冴えちゃって、頭の中が賑やかなときは
静かにさせようと思っても静かにならない。
ついでにコーヒーまで飲んでスッキリ。
せっかくだから、今日は時間をたっぷり使おう。
TOEICを受けてきた。
最近は熱心に勉強しているのですが
まだ間もないので変化はしていないと思います。
対策は全くしていません。
スコアのための勉強は今のところ
特にするつもりもないので・・・
モチベーションのために受けるような感じなので
今年は数か月おきに受けてみようと思います。
ここ毎年、「今年は勉強しよう」
と考えてTOEICを受けたりするのですが
何もしないまま一年が過ぎてしまっていました。
いつも、ぶっつけで受験をするので
毎回似たようなスコアです・・・
年末に少しは勉強の成果を目にできるように
頑張りたいなあ・・・とは思っています。
語学学習が得意な人もいるけれど
私は全くダメですね。
もともと覚えるようなことが苦手なので
年取ったから覚えられないとか逆に感じないので
その辺はポジティブに向かい合えますが・・・
いいんだか、わるいんだか(笑)
ちょっと今年は根気よく取り組みます。
最近、すっかり忘れていたような人が夢に出てきて
その人との出来事ややりとりなどを客観的に眺めていました。
すると、自分でもすっかり忘れていたような
その人がどうしてあんな態度をとったのかなどといったことが
別の角度から見えてきた。
何かしら自分の中に小さくでもあったようなわだかまりが
消えていくような感じがします。
どんな人でさえ、自分が意識していなくても
誰かを不快にさせたり、
不快にさせられたりということがあるのです。
それが悪意のあるような言動でなく
普通の会話でさえ、もしかしたら会話もしたことがなくても
他人の中にあるその性質を動かして
引き出してしまったりするようです。
何もしなくても、他人の悪意が動き出したり逆のことがあったり・・・
だから、自分が理由もわからずに悪意の対象になることもある。
それでも、他人の中には何か理由がある。
たとえそれが一方的な嫉妬や妬みだったとしても・・・
その人がほしいものや持っていないものを
私の中にみたのでしょうね。
自分の中に残る何かしらの思いに対して
根気よく対処しているような感じで
ちょっと見直したほうがいいものは
2,3回別の角度からチャレンジして納得しています。
すっかり前の出来事でも、記憶の中の衝撃的なことなどは
いつもそこにあるのかもしれません。
終わったことと消化したことの意味は違うってことかも。
何だか、色々な登場人物が日々出てきます・・・
生まれて間もない赤ちゃんは
妬んだり嫉妬したりということをしない。
もちろん、まだそんなものも体験していない。
あっという間に、愛情が自分だけに注がれないと怒ったり
泣いたりわがままを言ったりし始めるし
人のものを取ったりする。
もう少し大きくなると、もっと大人の反応になって
いじわるしたり注目を浴びようとしたり
大人が求めるものを分かって好かれるような言動をする。
どんどん人間の性質を身につけていっているということ。
大人になっても、あまり人間の持つ多くの性質に出くわさず
自分自身の中からも現れていない性質が少し多くある人もいる。
自分自身が表している性質ならば理解もしやすいけれど
自分が知らず、まだ気づいていないような
又はその性質が比較的弱い人にとっては
誰かに現れるその性質に驚くでしょう。
性質によってはショックだし理解できない。
考えてみると、「人間らしい」のかもしれませんね。
誰が良いとか悪いということではなく
色々な感情があること自体人間らしさの現れなんでしょうか。
私はチョッと幼かったのか大人になってから
沢山の感情に出会いショックだし全く理解できないことも
多く経験したような気がする。
自分がどうであろうが、
人間の性質は知っておいたほうが便利だ。
小さな子供の時から色々な性質が強い弱いと
その人自体が持つ個性としてある・・・
いい思いや悪い思いは別として
色々な性質に出会うことで、
結果として何かしらの刺激を受けることになる。
そこから自分も変化をし成長していくきっかけにもなる。
色々な性質はお互いを刺激するためにもあるし
もちろん、それが大きく自分自身に作用するものでもある。
最近よく変な夢を見る。
過去に関わった人が出てきたり・・・
そのせいか目覚めがよくないなあ。
「いつ死んでも悔いはない」
と言うようなことを聞いたりする。
私も若いときはそんな風に思っていた。
簡単にそんなことを言える時は
自分が物事を分かったつもりでいるような
深みのない人間であったように思う。
分からないからこそ生意気でいられる。
今でもわからないけれど・・・
それでも少しは深みは出たかもしれない。
だから、ちょっと慎重に考える。
「色々なものに執着が無くなった」
と言うようなこともよく聞いたりする。
でも、とても執着がある人からもよく聞く。
どんなに年齢を重ねても、
自分が自分自身を簡単なことさえ
見ることができないことに気づかされる。
それほど、分かったつもりになることは容易なこと・・・
そんな錯覚から客観的になること。
きれいごとで自分を見てあげない。
そうしたら、新しいものに気づく。
雪、降りましたね~
こんなに降ると思わなかった。
私ももちろん含めてだけれど、
大概の人は本当に自分の視点でものごとを
とやかく都合のいい解釈をして考えるものだ・・・
都合よくもっともらしく語るので
気に入る人は多いのかもしれないけれど。
全く肉体を持っての自分自身に関わらずの観点から
なかなか解釈を出すことができないのかもしれない。
稀に素晴らしい人はいるけれど
そこまでの人はめったにいないもの。
逆に、理解できないレベルの人からしたら
どっちにしても解らない。
でも、くだらないうんちくを信じて喜んだり傷つく
必要なんてない。
最近、特にそんなことが時々気になる。
むやみに盲目的に信じる前に客観的になることを試す。
上手な話しも心地よい話も真実には必要ないのかも。
「気づく」というのは頭の中で閃いたように解ることで
それだけでは意味がない。
本人が現実に行動を起こすことに意味があるわけで
それは使うためにある。
私たちは肉体という縛りがあるのだから
そこで、どう活かすかということも課題なのだと思うのです。
何かをしっかり落とし込み、肉体を通して表現する。
それは周りから見たら大したことには思えないかもしれない。
でも、自分の「気づき」はまず自分に落とし込むことができるはず。
自分はさておき、人にさとす人も多いのは
自分自身がしっかり現実に「気づき」を落とし込むことが
難しいからだとわかるだろう・・・
肉体にとらわれエゴが優先してしまうことが、いかに多いか。
エゴが優先しているなら
いつだって綺麗ごとばかり言える。
それは、その他のことだから・・・
「気づき」があったら自分自身でそれを実行しよう。
時々感じる面白いこと。
通常ネイティブでない語学学習者であれば
それぞれのレベルに合わせての理解力があるわけで
それでも、それぞれ完全ではない。
そも、それぞれのレベルで分かっていると思うことはある。
自分では分かっていると思っている。
でも、本当の意味やその背景も含めての
ニュアンス的なものまでは理解できているのかは微妙なのに
それでも自分は分かっていると本気で思っている。
本当に初心者はまだ全く分からずにいても
少し分かってきた人以上になると起こることなのかもしれない。
文法をしっかり勉強して文法的に解釈できるのと
会話で理解するのはまた少し違うかもしれないけれど
それぞれ一瞬を聞き理解することは難しい。
それにそれが本当に正しいのかなんて
誰も頭の中で指摘してくれないし
一番厄介なのは自分が分かっていると思い込んでいて
場合によっては後から話や人間関係が
噛み合わなくなってしまうこと。
微妙なニュアンスや意味の微妙な取違い・・・
大学もアメリカを出て流暢な英語を話している人も
同じようにミスをしていることがある。
それでも、長年そこで勉強し続けていれば
理解力も変わっていくだろうけれど・・・
私のような勉強中には当然ながらあるけれど
どのレベルでも完璧にならないものなの
かもしれないと思ったりする。
これって、目に見えないものを表す時も同じような気がする。
違いは、その場所で文化的な感覚も含めて
長期にわたって勉強し続ければ理解力が増すことでしょうが・・・
それぞれのレベルで分かっていると思ったりして
分かっていないものや間違ったものがあっても
気づかないまま正しいのだと思い込む。
似たようなレベルの人同士話しても
どっちが正しかったのかさえ分からないで
頑なに自分が正しいのだと思い込む。
似たような人同士だからこそ
どっちも分からないレベルでお互い譲らず
信じようとしなかったり。
物事は多少分かったつもりでも
本当はなかなか分かっていなかったりするのかも・・・
分かったと思うことさえ疑わしいかもしれないときがある。
そんなことを、フッと思うことがあります。
もっともっと、見えないもの聞こえないものを
観て聴くことを大事にしないのだろう?
物質なものを多く持つものが、まだ強さがあるけれど
同じものたちが引き寄せあうのは変わらない。
けれども、そこには摩擦ももめ事も絶えず起こってはいる。
いつだって強いエゴの出し合いの中にいるし
その中で力を持ちたいのだから
当たり前と言ったらあたりまえのことだろう。
おかげさまで、私はずいぶん前から徐々に
距離を置いてしまったので巻き込まれることも
少なくなっているけれど・・・
人間関係が変わっていくことにも
悲しむ必要も執着する必要もない。
終わる人間関係もあれば
始まる人間関係もあるし
もしかしたら、始まる人間関係は
すぐにはないかもしれないけれど
必要な出会いは必ずあるような気がする。
いつでも、シンプルにすっきりしておくことが
大事なんだと今はよくわかる。
若いときは本当に無駄に多くの人間関係から
混乱していたからこそよくわかる。