毎日気持ちの良い気候が続いていますね~
昼間の散歩などできたら、ほっこりできそうです
さくらも今週の暖かさで咲き始めていますね
もっと、私も・・・
そんな気分になりますね。
スピリチュアル関係のものは何でなんでも高額なのだろう?
クラスにでれば何かしら開花するかもしれないという
期待があるのかもしれないし、
何かを身につけたいだけかもしれない。
もしかしたら、有名な講師にあいたいのかもしれない。
理由はともあれ、資格があるものでもないものに
みんな高額を払う。
中にはクラスを受講することで満足して
何でもかんでも行きたくなる人たちもいる。
自分の未来もみてもらいたいですね。
分からなくはない。
何かを求めているのは、みんな同じなのだろう。
スピリチュアルなことって何でしょうね?
いい天気で気持ちが良いですね~
つい先日まで葉がほとんどなかった庭の小さなバラの木も
すっかり新緑できれいな緑に覆われています。
太陽と程よい水があれば、自然のサイクルですくすく育ちます。
人間はただ日々食べて、寝て仕事をする・・・だけでは
満たされないことが多いもの。
それらができるだけではモノ足りず
もっとそれらを充実させたくなる・・・
それらに何か意味を持たせたくなる・・・
もっと、もっと物質的な面や精神的な面において
何かを欲してしまう。
程よい向上心は素晴らしい動機になりますし
そこが人間の持つ素晴らしい性質の一つだと思うのです。
日々を当たり前のように過ごさせてもらっていることの感謝と
さらに自分ができる役割をより活かせるようにしていきたいものですね。
思い返してみると、自分の未来を思い描いたことはないような気がする。
子供の時から学校でよく「将来の自分」について
作文をよく書かされた。
でも、いつも何もイメージできないし
なりたいものもなかったので困ったことを思い出す。
仕事も私生活も何も自分の未来の姿を想像できないままでいる。
未来を想像して進めむ力はとても大きいと思う。
私はそんな力を持って進める人生に憧れるけれど
こればっかりはどうにもならないから仕方がない・・・
「力」はどんなものであれ
上手に生かせることができているならとても役立つけれど
何か失敗したときなどは未来の夢があるだけに
破滅的な打撃をうけるかもしれない。
どんな「力」をどのように使うのか。
そんな大きな力を持たないのなら
柔らかな小さな力でチョロチョロと
行先も分からないままとりあえず進むだけ。
どんなものにもそれなりの「力」はある。
誰もが自分が持つ「力」でそれぞれの人生を創っているのですね。
また、寒くなっていますね~
昼間は少し暖かいですが、サクラの花もびっくりです
只今、家にある幸福の木にお花が咲き始めています。
始めはブツブツしたものがニョキニョキ伸びてきて実なのかと思いましたが
段々とツボミになり始めました。
幸福の木にお花が咲くのを知らなかったので
本当に咲くのか?いつまでたってもツボミの部分を毎日チェック。
おとといのやっと少しだけ咲き始めましたが
これまた、とってもいい香りなのですよ~
夜にしか咲かないようで、朝になるとしっかりツボミのように
お花を閉じてしまう魅力的なお花です。
今度ブログにアップしますね
幸福の木にお花が咲くのはあまりないので
何となく良いことありそうで嬉しいですね。
占星術的に見ると今年は始まったばかり。
やっと今年の運勢が本格的に動き始めたようなので楽しみです。
しばらく、流れを観察してみようと思います
進もうとしても足止めされるような時ってありませんか?
まさに、そんなことがありました・・・
仕事を積極的にやろうとしたのに、続けてダメになってしまいました。
「もっと違うことがあるだろう」と言われているような感じです。
確かに違うのかもしれないけれど、仕事も選んでばかりもいられません。
もっと優先してやること・・・
目先のお金よりも優先しなくてはいけないこと。
そうなのかもしれないな・・・
そんな風に、足止めされるときは無理して進まないで
少し別の方向を見直してみる方がいいのかもしれませんね。
今書いていて、先日のブログに書いた「調和」をフッと思い出しました。
そうゆうことなのかもしれませんね。
フワッとくる合図を感じることもその一つです。
数日前、散歩をしているときに何だかとても全てが美しく感じました。
何か変わった景色でもなく、いつもと同じなのですが・・・
今の時期は、うぐいすも綺麗な歌声を披露してくれます。
自然の調和が完璧であることに感動する。
そうすると、もっと全てが輝いて見える気がします。
生き物の中で自ら調和を乱すのは人間だけかもしれませんね・・・
集団として、個として調和から離れてしまう。
そのサイクルをしっかり見て、自分で感じていられたら
もっと上手く生きられるのではないでしょうか?
自分の認識しできるもの、
またはしていることだけが全てではないでしょう。
でも、認められないものは
「ない」ものになってしまう傾向はあるような気がします。
認識できないのだから「ない」も同じなのかもしれないけれど・・・
自分の世界に「ない」ことが
全て「ない」ということにはならないとも思うけれど・・・
どんなことにも置き換えて言えることでもありますね。
「ない」ということが多かったり
認めたものだけに固着するのも世界が広がらない気もします。
「こだわり」と「ない」・・・
微妙なラインの違いなので気を付けたい部分ではあります。
いくつになっても、
自分の世界を広げられるようでありたいと思います。
時が来たら必要な人に会うと言うことを聞く。
そんな風に心に残る出会いに恵まれることは稀だと思います。
自分からそんな出会いを探し回ってもなかなか見つけられない。
一人でやるべきことがあるから。
その時が来ていないから。
そう言った理由があるのだと自分なりに理解した。
いま、やらなくてはならないことをやる。
いつでも何事も大事にやる。
今、必要なことは全てそこに揃っているのに
活用しきれていないのかもしれない。
もっともっと、遠くのものを活用したいと思っても
それは適切な時にしか活用することなんてできないのでしょう。
その「いつか」のために、自分でできる準備があるはずです。
自分の人生は誰かがどうにかしてくれるのでもなく
自分でしか責任を持てないもの。
今がこれまでの全てであり
今から全ての未来を作っていく・・・
いつの間にか、どこかで他人と自分という対象がいる中で
物事を考えている部分があるのだと思うのです。
いくら、「私はそうじゃない」と思っても
やはりどこかの部分では無意識に他人を意識している。
「自分流」なんてかっこよく言えば聞こえはいいけれど
やはり「自分流」なんてほとんどできてない気がします。
多くの人は、心の中では自分は特別でありたいと思っている。
何かに対して特別になりたい・・・
それは人よりも何か勝っているものが欲しいからではないでしょうか?
他人の賞賛を欲しいと思うのではないでしょうか?
それだけ意識しなくてもエゴは強くあるのだと思います。
全く自分しか存在しなければ
全く特別の意味も無くなる。
それでも、今と同じように考え同じように何かをするだろうか?
しないと思います。
その中で自分には何が無駄で何が必要か見つめていくこともできます。
他人との関わりは大事なことです。
でもそれは、エゴを発揮するためにあるのではなくて
エゴを取り除くために使われるものではないかと思うのです。
思いやりも慈しむ心も全ての愛は自分以外の人や
全ての自然が創りだす世界があるおかげで気づかせてもらえるのです。
何をどのように生かし、どのように関わるのかは
私たち自身で決めていける・・・
だからこそ、自分を苦しめるために使う必要は無いと思うのです。