脳味噌の老朽化=停滞によって、良いブログネタを見つけられないので、やむをえず、数年前の私のブログを紹介している。
これほど脳味噌が腐ってくると、早く猿股水爆ミサイルが待ち遠しい毎日だ。
あれこれ考える間もなく、瞬時に肉体のすべてを蒸発させていただけるとありがたいぜ。
ごめんな若い衆よ……。赤信号はみんなで渡るもんだ。
プーチンは、これまでの西側報道の重病説を裏付ける情報が出ている。
プーチンは「癌とパーキンソン病が進行」との記載が…ロシア政府関係者のメール流出か 11/5
https://news.yahoo.co.jp/articles/ba829c3dd16e76e6de7085c43f3d789d4672f038
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の健康不安説が取り沙汰される中、同氏が「すい臓がんとパーキンソン病の診断を受けた」とするメールの存在が明かされた。
プーチン「重病説」は長くささやかれており、ウクライナ侵攻後には血液のがんなどを患っているとの噂も飛び交った。最近ではロシア国防省が公開した動画内で、プーチンの手の甲に「静脈注射の痕」のようなシミが見えたとして疑惑が再燃していた。
ロシア政府は以前から、うわさは真実ではないと主張してきた。だが、イギリスのタブロイド紙ザ・サンは11月1日、ロシア政府に近い人物のメールを入手し、その中にはプーチンがすい臓がんと早期のパーキンソン病と診断されたと書かれていたと報じた。メールには、プーチンの病気は「すでに進行している」とも書かれているという。
同紙によると、ロシア情報筋はメールで、「プーチンは、最近診断されたすい臓がんの転移を抑えるため、あらゆる種類の強力なステロイド剤と、革新的な鎮痛剤注射を定期的に投与されている」と説明。「それが強い痛みを引き起こしているだけでなく、プーチンには顔のむくみや、記憶障害を含むその他の副作用の症状が出ている」と述べている。
情報筋はまた、すい臓がんとパーキンソン病に加えて、プーチンが前立腺がんを患っているとのうわさが浮上していることも明らかにした。「彼の側近の間では、転移が徐々に進んでいるすい臓がんに加え、前立腺がんも患っているとうわさされている」
ソーシャルメディアに先月投稿された映像では、プーチンの手の甲に静脈注射の跡のようなものが映されていたため、ユーザーの注目を集めた。クレムリンはその後、この映像を削除し、プーチンの手の跡を隠すような透かしを入れた映像と、彼の手が映っていない映像を新たに公開している。
6月には、プーチンがロシア国営企業ロスナノのセルゲイ・クリコフCEOと会談した際の動画で、むくんだ手でテーブルをつかんでいると、英メトロ紙が報じた。
4月に行われたベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領との会談では、プーチンは腕が震えているように見え、震えを止めるために腕を胸元に引き寄せるような姿が捉えられた。プーチンは、ルカシェンコに向かって歩くのも困難な様子だった。
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引用以上
この情報は、実は今年2月侵攻はるか前の、昨年はじめから報道されていたもので、「手が震える」症状からパーキンソン病の疑いを報じられ、侵攻後は、その無謀さからレビー認知症説が広く出回っていた。
パーキンソン病とレビー小体認知症は、非常に近い病気である。
https://www.sompo-egaoclub.com/articles/topic/850#:~:text=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E7%97%85%E3%81%AF%E3%80%81%E6%89%8B%E8%B6%B3%E3%81%AE,%E7%89%B9%E5%BE%B4%E3%82%92%E4%BD%B5%E3%81%9B%E6%8C%81%E3%81%A4%E7%96%BE%E6%82%A3%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
両者を区別することはできないようだ。レビー認知症が進行してくると、その日によって脳の働きが異なり、一般的には凶暴・無謀になる傾向があるといわれる。
プーチンのウクライナ侵攻と、豊臣秀吉の朝鮮侵攻には酷似した無謀さがある。秀吉は、死の前、極めて猜疑心が強くなり、それまで自分に協力してきた重鎮や家族を残酷な死に追いやった。
極めつけは千利休に切腹を命じたことだった。だが、利休死後、秀吉が自分が殺させた利休を「今すぐに呼べ」と何度も部下に命じて、窘められている。
プーチンも同じ症状で、片っ端からロシア軍司令官を解任し、協力してきたオルガルヒも片っ端から暗殺させている。まさにレビー認知症の典型症状だ。
結局、秀吉と同じで、自分の死と引き換えに、人類を道連れにしそうな妄想のなかにいるとしか思えない。
もしもプーチンが死んだなら、その理由の如何を問わず、サルマト水爆ミサイルが世界中の西側諸国に発射されるようにセットされているとの情報がある。
https://gendai.media/articles/-/95763
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再び、三年前に私が書いたブログから
本当に食べるもののなかった時代 2020年01月21日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1005.html
壱番屋カレーチェーンの創業者、宗次徳治さんが、孤児院で育ち、里親に引き取られても地獄のような生活で、学校に弁当を持ってゆけず、昼休みになると学校の裏で一人で過ごしていたというエピソードは、聞く方も辛い。
https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/
宗次さんは、1948年生まれだから、今は72歳だ。(今年74歳)今の70歳代は、「団塊の世代」と呼ばれ、もの凄くたくさんの子供がいた時代である。
一学級に60人もの子供がひしめいていた。机も椅子も足らなかった。私の時代さえ、50人近くいた。
当然、競争も激しかったが、みんな貧しかった。
実は、当時、学校に弁当を持って行けない児童は、たくさんいた。
まだ食糧事情も悪い時代だから、弁当を持っていける子だって、決して贅沢ではなかった。田舎では、ジャガイモやサツマイモをふかしたものが弁当箱に入っている程度、児童はみんなお腹を空かしていた。
給食制度ができたのは、弁当を持参できない子供が、あまりにも多かったからだ。
私も経験した、1950~60年代の給食といえば、コッペパンと脱脂粉乳、今なら口に入らないほどお粗末な食事だったが、当時は、それでも美味しかった。お腹が満たされるだけマシだったのだ。
やがて、おかずがつくようになり、近所にオリエンタルの工場があったので、鯨肉の入ったカレー味のモヤシ野菜炒めが一番多かった。
ちなみに、私は1960年代はじめ頃まで、肉と言えば鯨肉と豚小間肉しか知らなかった。
肉屋に買い物に行っても、買ってくるのはコロッケだった。当時、「貧乏人の味方、焼酎、たばこはシンセイ」という歌があったが、まさに貧乏人の味方コロッケだった。
日本の米作の増産が軌道に乗ったのは、1960年代半ば以降で、東京オリンピックのころまで、寒冷地では米が取れない地域が多かった。
私の住む中津川では、栗と五平餅が名産なのだが、米で作る五平餅は、今から半世紀以上も前、最高の贅沢品だった。当時、米は今のように大量に生産できなかったからだ。
私は、昔、民俗学を学んでいたので、地方の生活に関心を持って、日本人が豊かになる前の時代を調べて歩いたことがある。
内陸部の寒冷地では、豊かな米作が可能な場所の方が少なくて、そんな地域では、ほとんど寒冷地でも採れる蕎麦かジャガイモが主食になっていた。暖地では稗が主食だった。
だから、蕎麦が名産になっている地域は、1960年代まで米が多く採れなかった地域で、蕎麦や芋類が大切な主食だった。
また内陸部では、沿岸部のような豊富な海産物蛋白質を得られなかったので、動物性蛋白質といえば、まずは川魚、次に蚕や地蜂や蝗など昆虫類を良く食べた。
信州では、飢饉になると虫を食べ、山芋を掘った。
当時は、イノシシや熊などは大ご馳走として片っ端から捕獲して食べられたので、今よりはるかに少なかった。
戦後、大量の引き揚げ者が還ってきたものの、もう、みんなを食べさせる土地がなくて、やむをえず、「開拓」が広く行われた。
まだ「未開の地」として、十分な余裕があったのは、第一に北海道や青森下北だが、苛酷な気象だった。
それでも、意を決して北海道に渡った人々は、斧と鍬を抱えて原生林を開墾し、最初に馬鈴薯をたくさん作った。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/03/06/121469
家族が1年を過ごせるほどの馬鈴薯の収穫に成功すれば、それを食べながら、どんどん農地を増やしてゆける。やがて、蕎麦やトウモロコシや豆類も作れるようになる。
だから馬鈴薯は、開拓の希望そのものだった。最初は、決して美味でなく、腹が満ちればよかった程度だが、男爵イモの普及から、品種改良が進み、大切な食料になっていった。
信州や岩手の開拓地も、気候的には北海道なみの苛酷さがあって、やはり米が採れず、蕎麦や馬鈴薯が主食になった。南方の開拓地では、サツマイモが主力だった。
そもそも、薩摩軍が日本最強といわれた理由は、よく育つ甘藷のおかげで食料の心配が少なかったせいである。
さて、ここから主題だが、もしも今年、巨大震災が発生して、極端な食料不足に陥った場合、都会や近郊農地は修羅場になってしまう可能性があるので、結局、「ぽつんと一軒家」で紹介されているような、過疎の山村に退避して、食料を自給することになる。
都会では、子供たちにプログラミングを学ばせることが流行っているようだが、残念ながらコンピュータは食料を生産してくれない。腹を満たしてくれることもない。
そこで、人間の歴史的な知恵を総動員して、過疎の田舎に移住して、食料を生み出す段取りを考えなければならない。
日本経済が崩壊して輸入が途絶えれば、日本社会は、たちまち食糧危機に陥る。都会に住んでいては、他人の食料を盗むことくらいしか手がないのだ。
私は、極端な食糧不足のなかで何が起きるのか、考えてきた。
大都会では、近郊の農家に人々が押し寄せ、食料をねだるのは、敗戦後の混乱期と同じだ。しかし、今では、秩序の崩壊から、食料泥棒が横行するにちがいない。
だから、移住するなら、泥棒がやってこれないほどの深い山村がいいと書いてきた。食料とともに石油も輸入できなくなるので、たぶん車も使えなくなるだろう。
そこで、私は「ポツンと一軒家」のある過疎の限界集落に注目している。
千年も続いた過疎集落なら、過去千年間、集落を破壊するような災害がなかったことを意味するし、山村ならば良質な飲料水が容易に手に入る。
また、放棄された畑地は、簡単な手入れで立派な田畑を作ることができる。廃屋も手入れすれば、寝泊まりには不自由しないだろう。
まずは、最初の一年、北海道開拓史に学んで、馬鈴薯を大量に生産する。一人あたり200Kgも収穫できれば、一年間飢えずに過ごせる。
馬鈴薯の収量は、病気や事故がなければ、一反(300坪)あたり1~2トンは採れる。つまり5人の1年分の食料だ。
だから、仮に、10人の互助会(共同体)を結成して、過疎の田舎にダーチャを確保し、1年分の食料を生産するためには、最低2反(600坪)の畑地があればいいことになる。
今は、山村で放棄された畑地が無数にあるので、その程度の畑地を確保するのは、決して難しいことではない。
あとは、燃料の薪を集めたり、少し贅沢なおかずを作ったり、みんなで助け合って生活を楽しめば良い。
繰り返すが、コンピュータは食事を用意してくれない。
また株投機で儲ければいいと思ってる人も多いだろうが、基本的に博打はゼロサムゲームであり、負けたときには餓死の運命しか残されていない。
とりあえず、子供たちの未来をつないでゆける方法は、過疎の山村にダーチャを共有することしかないのだ。
http://www.ruralnet.or.jp/ouen/mes/m408.html
助け合い共同体を考える上で、数の多いスケールメリットは、あまり勧められない。
人数が増えると、分業による合理化が必須となり、組織の上に立つ者に権力が生まれるからである。これは社会発展史史を研究してきた者なら、誰でも理解できることだ。
権力が生じれば、組織内に格差ができて上下関係ができてしまう。それでは楽しい共同体にならないのである。
私は、おおむね10~20名を共同体(互助会)の一単位と考えている。それ以上、人が集まらない方が合理的だ。数が少なければ分業が通用せず、一人が、どんな仕事もこなさねばならず、大変だが特権階級が成立することはない。
あんまり少ないと、老人介護や子育てが大変になってしまう。
以上は、「捕らぬ狸の皮算用」なのだが、もしも飢饉や食糧危機が訪れた場合、人間には、今の我々の生活からは想像もできないような潜在能力があることを知っておいた方がいい。
実は、縄文時代の人々は、三食どころか、毎日の食事にありつくことは困難だった。出土遺骨から、数十日程度の絶食は珍しくなかった。だから平均寿命は30歳に満たなかった。
現代の、クマやイノシシも同じで、毎日の食事など、とんでもないのだ。
人類が、毎日一食を得ることができるようになったのは、古代から中世にかけてであるが、毎日三食という習慣は、実は大正時代以降のことにすぎない。
つまり、人間の体は、一日一食生活に、余裕を持って適応できるのである。それどころか、人には冬眠の能力さえ眠っているといわれる。
https://www.dplay.jp/article/science/0000000067
タモリやタケシも、一日一食主義だといわれる。本当に食べ物がなくなれば、まずは、一日一食にし、次に三日に一食にしても、十分に耐えてゆける能力が人間には備わっているのである。
だから、「飢える」ということには、それほど心配しなくていい。
「水が飲めない」という場合でも、比叡山の千日回峰行者は、9日間の不眠不臥、不飲、不食の修行をしなければならないが、あまり死んだ者は聞かない。
まあ、人には、食べなくとも簡単には死なないという性質があることを知っておけば、多少の食糧危機には慌てずにすむだろう。
だから、最初に考えるべきは、住む場所とともに、食料生産のための「ダーチャ」をどう確保するかなのだ。
そして、何よりも、「信頼できる仲間」が必要である。私も、一人で過疎地帯に住んでいる人を知っているが、他人との交流がないと、人間、どんどん退化して廃人に向かってゆくのである。
私なども、人との付き合いがないと、どんどん認知症が進み、家もゴミ屋敷になって、片付けるという習慣さえ失ってしまう。
だから、仲間を作るというのは、何よりも大切であって、他人に完全主義を求めてはならない。人に厳しいと、誰も寄ってこなくなる。
人を集めるには「優しい性格」が必要である。突き詰めれば「利他主義」ということなのだが、利他主義の波動を持っている人には、同じ波動を持った人が近寄ってくるという「波動の法則」を江原啓之が指摘している。
そんな波動の自然体でいれば、黙っていても、信頼のおける仲間が集まってくるというわけだ。
新自由主義者のような利己主義に洗脳された人は、利他主義者を見ると軽蔑したくなるらしい。とても嫌な人間に見えて近寄れない。
利己主義者には、利己主義者が寄ってくる。利他主義者には詐欺師も近寄ってこれないのである。
だから、自分と波長の合う人を見つけ、子供たちの未来のために、余生を捧げるという考え方が一番合理的だろうと私は思う。
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引用以上
すでに読んでいただいていた方には重複して申し訳ない。これは、今、ロシアの核ミサイルが飛んできて、不幸なことに生き残ってしまった場合、生き抜いてゆくためには、馬鈴薯や蕎麦、甘藷を作って自給するしかないという私からの聞き飽きたメッセージを繰り返しているのだ。
認知症が進むと、同じ事を繰り返すようになるらしいが、まさに今の私がそうだ。
今は、毎日、来年の食糧危機に備えて、来春に受け付ける芋苗のための畑を整備している。
80坪の畑のうち、半分くらいしか使っていなかったので、残りをどう有効活用して、食料を作れるか試しているのだ。
私が死んでも、誰かが見つけて後を引き継いでくれると嬉しい。
実は、私は不思議なくらい、結婚して子供を育てることに関心が持てなかった。結局、独身のまま老いてしまったのだが、なぜなのか考えてみると、きっと、我々の運命が無意識に見えていたのではないかという気がする。
子供を育てれば、その子らの運命を心配し続けなければならない。我が子が戦争で死んでゆく運命を、私の集合無意識が拒絶していたのかもしれないと思った。