橘玲著『(日本人)かっこにっぽんじん』から引用。
だが中期になると、そこに自生的な秩序が生まれてくる。それが「連帯責任」だ。
その当時、村にとってのいちばんの難題は、出奔(しゅっぽん)や逃散(ちょうさん)といって、借金を抱えた村人が耕作を放棄して村を出てしまうことだった。とりわけ豊臣秀吉が天下を統一し、伏見城や聚楽第(じゅらくだい)などの巨大建造物がつぎつぎとつくられるようになると、人足の需要が急増し、食い詰めた百姓たちが京都に流入して、近郊の村は深刻な過疎化に悩まされることになる。
村の人数が減っても領主は年貢を減免するわけにはいかず、かといって村が貧しくなればますます逃散が増えるから、これは領主にとっても、村人にとってもきわめて深刻な問題だった。気に入らない村人を追い出して自分の土地を増やすのではなく、なんとか村に残ってもらうことが死活的に重要になったのだ。
こうして、イエを単位とした土地の管理と、「五人組」などの連帯責任制度が始まった。
中世のムラ社会では、土地は原則として分割も売却もできず、イエとともに長子がそのまま相続することになっていた。逃散などで放棄された場合でも、残った村人たちで分け合うのではなく、共有地として全員で耕作し、跡継ぎが成人するか、当人(正当な所有権者)が戻ってきたら返却されるのが慣わしだった。
このように土地の所有権を確定したうえで、隣家同士が助け合い、監視し合いながら村の秩序を維持していく制度が自然と生まれた。これが「五人組」で、後に豊臣秀吉が京都の管理に利用し、それが江戸幕府に引き継がれて、戦前の悪名高い“隣組”までつづいていく。
歴史の教科書では、五人組は権力者が農村管理のために押しつけた制度とされてきたが、近年の中世研究では、もともと村にあった制度を領主が追認したものだという見方に変わってきている。
自営農家である中世の村人たちは領主に対しても一定の自主性を有しており、不満があれば村の側から主従関係を破棄することもあった。境界に位置する村は、双方の大名に半分ずつ年貢を納めて安全保障を買っていた。
このように、領主と村人は相互依存の関係にあり、戦国大名といえども村人に耕作を放棄されればなす術はなかった。民衆の望まない制度を権力が一方的に強制することなど、できるはずもなかったのだ。
ああ、僕は「連帯責任」という言葉を聴くと、つい民法の「連帯保証」を連想するなあ。
「連帯保証人」は、単なる「保証人」とは違って、「催告の抗弁権」と「検索の抗弁権」を行使することができないのだったなあ。
こういう法律、外国にもあるのかなあ。
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