現代人の僕たちは「自分のしたことは自分で責任をとる」のが当たり前だと考えているけど、こうした“自己責任”は近代以前の社会には存在しなかったようです。
橘玲著『(日本人)かっこにっぽんじん』から引用。
戦国時代の農村は旱魃(かんばつ)や飢饉(ききん)が頻発し、農業だけでは村の人口を養うことができず、蓄えのつきる冬から春にかけては大量の餓死者が出た。このような極限状況のなかで、戦国初期の村はむきだしの暴力の世界だった。
戦国時代の重要な合戦は、その多くが冬や春の農閑期に行なわれた。これは大名や領主が、放っておけば餓死してしまう農民を雑兵(ぞうひょう)として戦場に連れていき、なんとか生き延びられるようにしようとしたからだ。
とはいえ、戦国大名は合戦に参加した百姓たちに給金を払ったわけではない。彼らは武士や侍たちのためにただ働きをするかわりに、戦場となった村での濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)が許されていた。戦国時代の戦争は一種の公共事業で、大名たちは天下を統一するためではなく、村人たちに“職”を与えるために隣国に攻め込んだのだ。
戦場での収奪は徹底的で、備蓄してある食料や衣服など換金可能なものを奪いつくすだけでなく、女や子どもをさらって売り飛ばすのが常だった。戦国時代にもっとも価値の高い「商品」は奴隷で、合戦が終わると町には人買いの市が立ち、国内で買い手がいなければ、長崎や平戸からポルトガル船に乗せられてマカオ経由で東南アジアへと売られていった。
こうした暴力性は村の内部にも浸透していて、一部の長老たちが結託し、ささいな瑕疵(かし)を理由に村人の田畑や資金を取り上げ、家族もろとも追放するか、場合によっては皆殺しにすることもあった。農耕社会は土地を中心とする退出不可能な世界だから、ものごとは全員一致でしか決まらない。だとしたら、相手が合意しないときは物理的に消滅させてしまうほかはない。
このように中世初期の村は、過酷な暴力の掟で運営されていた。
ああ、酷い。
こうして見ると、僕の「人間は悪魔である」という妄想は、あながち間違いではなかったのではないか・・・と思えてきます。
とにかく一見、スマートに見える現代人の遺伝子にも、戦国時代の人たちの遺伝子が受け継がれています。
そう考えると、少し怖くなる、僕でした。