「私」とは何かと言いますと、
『過去の記憶の集大成』であるというようなことが、よく言われますが、
ただそれだけではないように思うのです。(^^;ゞ
たぶん、上の文節の「私」というのは、肉体人間の頭脳の、思慮分別を中心にした意識としての「私」のことであるように思うのです。
でも、その「思慮分別」をさせている「大いなる命」に繋がる自分と
というのは、もっと広大で、大きな精神だと思うのです。
それは、感情と精神との違いかも知れません。
感情はつねに変化してゆくもの、精神はその感情を見守っていて、
不変(普遍)であろうとする意識のことです。
ですから、私たちは「精神」を生きているのかも知れません。
この精神を顕そうとする私が、「大きな自分」であり、感情を顕そうとする私が、「ちいさな自分」です。
そして、この「大きな自分(大いなる自分)」を顕している時には、「過去はない」という生き方をしているのだと思うのです。
この「過去のない」生き方というのは、把われのない生き方(いのちの立場)のことです。
『過去の記憶の集大成』であるというようなことが、よく言われますが、
ただそれだけではないように思うのです。(^^;ゞ
たぶん、上の文節の「私」というのは、肉体人間の頭脳の、思慮分別を中心にした意識としての「私」のことであるように思うのです。
でも、その「思慮分別」をさせている「大いなる命」に繋がる自分と
というのは、もっと広大で、大きな精神だと思うのです。
それは、感情と精神との違いかも知れません。
感情はつねに変化してゆくもの、精神はその感情を見守っていて、
不変(普遍)であろうとする意識のことです。
ですから、私たちは「精神」を生きているのかも知れません。
この精神を顕そうとする私が、「大きな自分」であり、感情を顕そうとする私が、「ちいさな自分」です。
そして、この「大きな自分(大いなる自分)」を顕している時には、「過去はない」という生き方をしているのだと思うのです。
この「過去のない」生き方というのは、把われのない生き方(いのちの立場)のことです。