気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

戦禍に育まれた中学時代(6)

2015-04-14 00:22:16 | 日記

教室の掃除をした記憶が何故かない。 

掃除と言えば女子生徒が、しかも雑巾掛けをしている光景に何故か同じクラスの背の高い可愛いい女の子しか思い出せない。もしかして、男子生徒は免除かなと思ったり、 まさか、「ずる」を決め込んでいたのかなと思ってみたりした。 

しかし、性格からありえないことと自分を信じている。 

   自分の性格は内気で人前で発言をするなどが苦手でましてや、まだ中学生の身では無理。 

   こんなことが音楽の時間で起きた。

先生がピアノの前に座ると黒い塗りの反射で生徒の姿が見えるようだ。 ひとりずつ席順で音符を読まされたことがあった。 音楽は唄わされるので嫌いだったせいで、音符を覚えようとしなかった。 

順番が来て「分かるはね・・」と覚悟していたのに先生は突飛な事を口にして、次に飛ばした。  正直に「分かりません」とは言えなかった。 未だに申し訳なく忘れていない。 

   また、美術の時間に課題が出されて、その評価を班単位で討議して纏め発表する必要があった。

課題は「ART」文字のデザインと「花瓶」の形のデザインの二点だった。

    ARTは文字の辺を塗らず白地の線を生かしたデザインにした。 花瓶は紙を二つ折りにした片方に花瓶の半分を一気に鉛筆で曲線を描いた。 下部部分が小さくバランスがやや安定感に難があると思ったが、そのままにして提出した。 二つ折りの紙を開くと花瓶が出来上がっていた。  

 先生が「前のクラスで評価が高かったのは、これら・・」そして「これは上が重く安定感の点でやや難がある。」と私の花瓶のデザインを指して説明をされ、黒板に貼られている作品を見た。 

驚いた。 その中にARTも花瓶も二点が私の作品だった。 

作者の名前は伏してあるものの自分には分かる。 

班は6~7人で構成されていた。 話し合いの後、女の子のひとりが班の発表者になれと合図を送って来た。 とんでもない話だ。 止むを得なく彼女が発表する羽目になった。 

逃げて申し訳なかったと思っている。

 確か、三年になった時 教室の校庭の入り口で女の子がお母さんとふたり立ってこっちを見ていたのを覚えている。転校生だ。私の席の通路を挟んで隣になった。

 或る日、試験答案用紙が返された時、「どうだった?」と点数を聞かれた覚えがある。

どう答えたのかは記憶の外になっている。

 二年か三年だったかは自信がないが、夏の行事として「水泳」と「卓球」のクラス対抗の競技があった。選手の選考が話合われた。 

勝てる力量があるかは二の次で、まず選手を選考せざるを得ないのが実状。

泳ぎがやっとプールの横幅をクリヤーした私に何も人がいないからと私を指名するとは・・。競技ではプールの縦幅が25メートルもあるのに・・。

無理以前の無茶だ。

やっと、やり取りがあって、何とか逃げれた記憶である。

とたんに、「出て呉れるだけで良いから卓球を頼む」ときた。しぶしぶ引き受けざるを得なかった。 大いに恨んだが誰だか記憶にない。 思いだせずに残念。

当日は悲惨そのもの。

相手が悪かった。 卓球部のキャップテンとの対戦。 最初から無茶だ!

サーブの一回だけで後は全てストレート負け。

大恥の一日だった!!

 

 


戦禍に育まれた中学時代(5)    

2015-04-13 00:11:31 | 日記

確か秋になり、「第一回目黒区立中学校対抗駅伝競走」が十一校で行われた。 

日頃の練習コースとして学校を中心として歌手の藤山一郎邸の前を通り過ぎ、目黒区役所の辺りを左折して目黒通りに抜け、清水町そして目黒消防署を過ぎて油面商店街までの周回コースに汗を流し、時には大鳥神社往復の登坂コースなど走り鍛えられた。 

指導された先生が足のアキレス腱を切断され、入院先の国立第二病院までお見舞いをしだ記憶がある。 

こうして、走者のひとりに選ばれたのは北京の学校で城外に広大に広がるコウリャン畑の彼方に見える煉瓦工場まで走らせられ鍛えられたマラソンの訓練の賜だったと思う。

競技当日の走者の伴走サポートをして呉れたのは元ちゃんであった。 

当日は授業中に早期退席をして昼食をとるように言われた。 昼食の早飯食いを公認され、ふたりして何だか心地よい気分になった記憶がある。

目黒通りの都立大前(細い川があり、小さな橋があった地点)から自由ケ丘(登り切った坂の上までの地点)までの登坂の第三区間を走った記憶である。

コースは未舗装の部分もあり、道路沿いには、まだ畑が残って長閑な田園風景であった。 

少しでも足を軽く走りやすくするために母が白足袋に足袋底を厚く縫込み、それを履いて臨んだ。当時はまだ競技用の靴はなかった。

九着でバトンを引き継ぎ、次の走者にバトンを辛うじて抜き八着で渡せた。

登坂コース一本だったので苦しかった記憶がある。 結果は九着だった。 

参加賞がノート一冊で、質素なものだった。

  このほかに、陸上競技の四〇〇メートル・リレーに第二走者で走り、予選で勝ち取ったものの決勝では最下位で敗退した。 

競技場は当時の第一師範(現東京学芸大)のグランドだった記憶である。

ここで北京時代の学友に奇遇にも会ったのには驚いた。  

 

何がそうさせたかの経緯の記憶はないが、元ちゃんからふたりして推理小説を執筆しようと言われ、目黒消防署の裏手にあった彼の自宅を訪ね構想を練ったことがあった。 

その作品に暗号を組み込んでサスペンスの要素を組み入れれば推理効果を高められるとなった。 

その暗号とは縦横斜めと、いずれを足しても15になる九文字からなるクロスワードである。 

知られたくない秘密を九文字に隠して知らせるのだ。 しかも詠歌になっているとは・・。 

  「294と思えば 753 618は 十五夜の月」

印象が強かったのか忘れずにいる。

 


戦禍に育まれた中学時代(4)  

2015-04-12 00:14:47 | 日記

  夏休みになり旧盆の休みに入ると、校庭が夕涼み野外映画館に変貌した。 

丸太の柱を左右に建て、そこに白い大きな布を張った粗末なスクリーンだったが、楽しかった。

夕涼みを兼ねて、出掛けるので友人に会えるのも楽しみの一つだった。 

クーラーもない頃だけに夜風が涼しく楽しめた。

浴衣を着る女の子も目立ち始め戦争は嘘のように感じられた。 

友人と夜空を眺めながら天体の話に興じていた。 

 祐天寺境内では盆踊りに相撲大会が行われた。 

北京で学校対抗の相撲大会に補欠で出場したこともあり、身体は小粒だが運動神経はあり、得意になった気分で近所の友達と技の練習をして会場に出掛けて行った。 結果は上手投げで勝ち賞品を貰い友人と喜んだ記憶がある。

  それより大変なことになった。 

同じ中学の友人ではないが、近くに住んでいる同学年の友人が自転車を借り、荷台に保冷庫を括り付けアイスキャンデーを売る話を聞いた。 仕入れは中目黒にある卸業者から卸して貰うのだと言う。 当時、一本五円で安いのは三円だった。 遊び仲間なので何となく面白半分に手助けをしていた。 盆踊りが佳境に入り、人いきれで暑くなり、前を通る友人を見つけると声を掛けていたから行商人はたまらない。 こちらは商売の妨害をしている認識がない。 行商人の男が「許可は・・」と脅しを掛けてきた。 即座に中止したほうが良いとばかりに友人は退散した。 

商売をするなんて、随分大人びて、しかも許可もいることも知った。 

 或る時、休み時間に「君の名前は中国語では何と言うの」と元ちゃんに聞かれた。

「ねいてん ういふ と言うのだよ」と答えた。 

ふたりの後で、この会話を聞いていた友人がヒヤリングのとおり英和辞書を引いた。 英語で「wife」だ。 「奥さん」と言うのか・・。 

そんなことから、一時はからかい半分に「わいふ」と呼ばれたこともあった。 

あだ名に「奥さん」が定着しなくてよかったと密かに胸を撫で下ろした。 

その後、英語の試験に出題されたが「これだけは間違わないよ」とある友人からからかわれて言われたことを今でも鮮明に憶えている。 

また、英語の時間で「アリババと四〇人の盗賊」を誰かが朗読すると、必ず笑を堪える箇所があった。 そこは、「・・Morgiana was so clever ・・」と読むと反射的に「こういくぞ」と繫がるのが面白がった。 

たわいのないことで面白がる年頃だったのかも知れない。


戦禍に育まれた中学時代   (3)   

2015-04-11 00:15:05 | 日記

机と椅子の残りの半分は熊野神社の近くにあった中目黒小学校にクラス全員で取に行くことになった。 

   北京の国民学校で使っていた西洋風の椅子と机が一体になっていない分が軽く感じた。 

   クラス全員で学校のある油面商店街から自然園下を通り、そこからは大きな緑色をした丸いガスタンクの見える上部を目指して住宅地の裏の近道を歩いた。 子供の足で二十分程かかった。 

裏門から入って二十脚位を貰って持帰った。 この学校は大きく立派だった印象を受けた。  

 奥の校舎の裏手に二十五㍍のプールがあった。 

北京ではプールがなく泳ぎは苦手だ。 最初はプールの横幅を泳ぎ切ることを目指し、次に二十五㍍に挑戦した。 顔を上げて泳ぐのは無理でひとかき都度沈んでいった。 息が長く止められたので、出来るだけ潜ったままで頑張った。 

   友人と遊んでいて背中に乗られ底に沈められた時も同じで酸素消耗を防ぐため動かないでいた。 危ないことをしたものだ。 

このプールは日本大学の水泳部も利用していたと言う。 

夏休みになると、何とか泳げるまでになったのは、このプールのお蔭だった。 

  美術の時間に組み立ての帆船を作る事になった。 

   組立に必要な工作糊を買いに神田まで友人ふたりと行った。 店の人に膠を和紙などの紙に塗ると「一時は弛むが乾くとぴ~んと紙が張り何でもその上に塗れるよ」と教えられ、ふたりして揚々と帰宅し帆船組み立てに活用して大得意だった。

  理科の時間に自宅の近辺を中心に井戸の水位を調べる事になり

   確か何人かとグループを組み、紐の先に重しを結び井戸を見つけると、紐を垂らして水位の深さを測定して歩いた。 我が家の井戸の水位は二メートル程だったと思う。 

我が家では夏になると昔馴染みの西瓜を吊るし冷やしていた。 

    祐天寺裏から自然園下に向かう途中の家で一メートルしかない水位の井戸を見つけ、土地の等高と水位の高低差に因果関係があるのに興味を持った。

  社会の時間で目黒不動尊の地中に埋もれているものを探しに同じメンバーで境内を歩きまわった。 埋もれているならともかく、落ちている訳もない縄文土器と見間違えた水差し風の土器の大きな欠けらを見つけた。 

 「昔の土器かな・・」「先生に聞いてみよう・・」とか言い合いながら拾って歩いていた。 近くにたまたま竹の棒が落ちていて先程の土器を竹の先に差し込み、くるくると廻していた。 遠心力が働き、土器は竹の先から飛んで落下してしまった。 

「あ~」と叫んだが時すでに遅し。 

  疑ってはいたものの、「もしや本物で大発見かも知れないのに‣・」口惜しいのと、申し訳ないとの気持ちが入れ交じっていた。


戦禍に育まれた中学時代  (2)   

2015-04-08 21:31:17 | 日記

我が家は学校までの距離は数百メートルと近かった。 

家の前の路地幅は私道で狭く車がやっと通れる幅しかなかった。 戦火を免れた戦前の木造家屋が立ち並んでいた。 

   ここ本籍地でもあった古き想い出の家は母の死後に処分して今では跡形もない。 そして本籍地も横浜の地に移して地縁も薄くなった。 

でも、想い出は消えない。 

   バス亭にいまも名称を残している「大塚山」の盛り土でできた小山も崩れ、いまや名を残すのみとなり、当時は螺旋状に登れて十メートル程の頂上には一本の松の木があった。 良く登ったものだった。  

   祐天寺の裏山門も五交差路の祐天寺裏から消えた。 

車の興隆に邪魔になったのだろう。 寺に由緒ある風格さがなくなった感を受けた。

    ここ祐天寺にはさまざまな歴史がある。 後年、実家を訪ねた折、寺を訪ね た。   学生時代に境内でF10号のキャンバスに油彩で本堂を描いたことが懐かしい。入ったことのない墓所に入り歴史探索の気で散策に訪れたことがある。そこに明治天皇の実母の質素な墓所に巡り会え、そして歴史を知った。

 

  よくよく考えてみると、懐かしい中学校は油面小学校の隅にあった校舎時代に、これもかなり前に既に移転している。 移転先の清水町の校舎には愛着もなく一度も行ったことがない。 

   ここでの懐かしい想い出は、近くの油面小学校の片隅にあった素朴で粗末な校舎の三年間に凝縮されている。 

  休み時間の遊びの中心は野球だった。 

 ボールは消しゴムを軸に麻ひもでグルグルと巻いてボールとして使っていた。 これはソフトボールより小さく、硬くバットの芯に当たると良く飛んだ。 考案したのは友人の「元ちゃん」であったと思う。 彼はファーストの守備の時、補球したボールは直ぐに放ったものだ。 いかにも落球したかに見えるが、所作がスマートに見えた。

学校対抗試合の応援にも良く行った。  

北京に住んでいて、しかも戦時中でもあり野球は知らず、相撲の方に興味があった。 

父からクリスマスにグローブをプレゼントされたのが興味を持ち始めたと言ってもいい位だった。 

「投げてみろよ」と友人に言われ、投球をした。「もう少しスピードが出してみろ・・」何球か投げ合ったことが懐かしい。 

 

プロ野球では巨人の川上、東急の大下の赤、青バットが全盛の頃だったと思う。

後楽園球場にはひとりで朝早くから観戦しに行っていた。