気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

幼い頃の孫娘とおじいちゃんとの話(4)

2015-04-05 16:08:40 | 日記

孫娘は生まれる前から母親と太平洋を往復している強者である。

 いろいろと心配を掛けさせられた孫娘は無事に兄と同じ月に生まれてきた。  それも、雛祭りのお祝いの日が近く、いずれか一方がないがしろに扱かわれ、損な日に・・・。 雛祭りは日本古来の祝いごと故どうしても・・・。 アメリカの誕生日会は子供の社会では一大イベントである。 会場を借りて行うこともしばしばだ。

 1歳の誕生日を迎えるも兄と似てるのか、それとも爺がとろくなり、信用ができないのか、Berkeleyの日系人家族が良く遊び場にしているTot Land で娘が日本人町の美容院に行く間ふたりきりになった。 日本から昨日着いたばかりの爺が乳母車を押しているが・・・。疑い深そうに首を大きく反らして爺の顔の確認を何度もされた。でも、血がそうさせるのか、泣きもせず信用して呉れてるとひとり満足に浸った。

実に孫娘は明るい。

   日増しに歩きが上達。しかも、 疎まれても兄にまとわりつく逞しさがある。 言葉も[mama][dada][no]そして要求は[this]とその物を指す仕草をする。 特に、yes,noの身体表現は實に痛快で首を大きく縦に、横に振る。 最後には「じいちゃん」そしてnoの代わりに「いや」も言えるようになる。 

   余りの可愛さに頬にチュウをしようとしたら、いきなり孫娘から唇にチュウをされて、やっとmama 並になれたことに感激。 喜んで娘に話す。 

 誕生日の前日に「もう3歳だね」と言うと「まだ2歳よ」と言われた。 もう一度、誕生日の当日に「今日はお誕生日だから3歳だね」と言うと「そう3歳よ」と言われ違いがわかるのには驚いた。 食べ物の違いか・・・?

 空港で爺を見つけると弾丸のように走って来て両手両足を宙に浮かして爺の弱くなった足に、昔ヒットした「黒んぼのダッコチャン」よろしくしがみつく。よろけ乍ら爺はメロメロである。

街で食事をする時に爺の隣に誰が座るか兄弟喧嘩が始まる。テーブルは大体4人掛けである。隣はひとつしかない。

 爺が訪ねて行った時は娘も含め3人は日本語での会話である。 

 里帰りが毎夏の行事だったが、福島の事故以来は大事をとり控える様になった。 これが原因ではないが二人の日本語の流暢さにわずかながら差がついたようだ。 

 兄の孫息子は日本語学校で講師に頼まれるまでにレベルアップしている。 だが、まだ孫娘にも兄との年齢差3年分がある。こうして、日本語学校の卒業を無事に終えた。入学までの同伴期を加えると十二年掛けての日本語学校の卒業となる。

 したがって、PrimarySchool 時代に五日制は孫に無縁だった。 土曜日は日本語学校に通学していたので・・・。 それを思うと母親の信念が成せたこととは言え、将来にそれを活かせられるようになって欲しい。 途中で断念する子供もいると聞く。 二つも学校に通ったのだ。 しかも常にふたり一緒の同伴期も含めると・・。 良く忍耐強く頑張ったと誉めてやりたい。

 ふたりがまだ9歳と6歳の時、爺が明日帰国する夜にA4 判2枚を継ぎ合せ「さようなら 日本でまた会おうね!」と書いた紙をプレゼントされた。うれしくて、いまも自室の壁に貼ってある。 これまでも兄主導で似顔絵だったりと何かを呉れていた。 

 孫娘が10歳になった時に、日本から何時もの店で「一寸大人っぽいチュニック」を手土産に買っていった。 翌日、嬉々として着て登校した。 男の子にからかわれたようだが苦にしない。 学校には着て行かなくなった。 可哀想なことをした。

こうして孫娘も今年で13歳になり、この9月で9年生(半年先行。日本の中学3年生)となる。 

そして、近くに息子の娘、即ち二人目の孫娘がいる。 3歳を迎え、爺をやりこめる口達者な孫の脅威にさらされている。 

孫にも、老いにも、病にも負けてはいられないこの頃です。