気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

戦禍に育まれた中学時代  (終)

2015-04-17 00:12:00 | 日記

北京で子供の頃に頭部を二度にわたり大きな強打の事故を起こしていた。

事故後五年程が過ぎ、後遺症として病魔が牙を剥きだしてきた。

  それは、三年も終わりに近づいた頃だったと思う。 自宅で朝、登校の準備をしていた時、突然に右眼の前辺りに物が見えない小さな箇所ができ気分的にも不安定感に襲われ、そこがギザギザに歪み、段々と焦点の合わない輪が眼の辺り一面に広がり、そして更にギザギザが虹色に変わってきた。

・・その後は憶えていない。

傍らに確か妹がいたので、右指で何かを示した記憶までは朧ながら憶えている。突然に目の前で倒れた兄を見て大騒ぎになったそうだ。

当時の医学レベルでは原因不明のことのよう。 血管収縮が原因のようだ。

それから数日が経ち二度目が学校の休み時間に教室で起きた。自分でも兆候を感じたのか机にうつ伏せになっていると、誰かが悪戯心で椅子を引いたそうだ。崩れるように倒れてしまい、ここでも大騒ぎになってしまった。

 再発を防ぐため治療に時間をとられ、高校受験に制定された「進学適正検査」どころでなかった記憶であった。 六十五年が過ぎた今でも年に数回だが軽いギザギザの歪みと頭痛は残っている。

若気による不運な事故と片付けるには余りにも大き過ぎたと言える。

 

 中國から無蓋車に貨物同様に載せられ、引き揚げてきた苦難はあったものの、曲がりなりにも当時、親兄弟と共に生活をしていた幸せを肌でしみじみと感じた

 中國北京と言う日本とは文化の異なる国での足かけ六年間の生活、さらに敗戦による引き揚げ苦難の経験、そして戦禍の祖国で、ここ目黒の地に落ち着くまでの放浪、加えて大事な時期に小学校へも一年間も登校できず、しかも五年次と六年次の間を行き来するなど短い人生で味わった貴重な体験だった。 

 

しかも、この中学生活の三年間は、輝く多感な少年期だった。 

私の戦後の「戦禍に育まれた中学時代」の社会背景は多事多難な、こんな時代でした。 懐かしい想い出を残した中学校の校名「目黒四中」は平成27年3月末をもって、統廃合され消えた。

もう、時計の針は戻せない。でも、想い出の中には戻れる。  

終わり

blogを知り、投稿を始めて数か月が過ぎ楽しみました。

未投稿の北京時代を主にした「自分史」の拙文が纏まり、終わりました。