気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

戦禍に育まれた中学時代  (2)   

2015-04-08 21:31:17 | 日記

我が家は学校までの距離は数百メートルと近かった。 

家の前の路地幅は私道で狭く車がやっと通れる幅しかなかった。 戦火を免れた戦前の木造家屋が立ち並んでいた。 

   ここ本籍地でもあった古き想い出の家は母の死後に処分して今では跡形もない。 そして本籍地も横浜の地に移して地縁も薄くなった。 

でも、想い出は消えない。 

   バス亭にいまも名称を残している「大塚山」の盛り土でできた小山も崩れ、いまや名を残すのみとなり、当時は螺旋状に登れて十メートル程の頂上には一本の松の木があった。 良く登ったものだった。  

   祐天寺の裏山門も五交差路の祐天寺裏から消えた。 

車の興隆に邪魔になったのだろう。 寺に由緒ある風格さがなくなった感を受けた。

    ここ祐天寺にはさまざまな歴史がある。 後年、実家を訪ねた折、寺を訪ね た。   学生時代に境内でF10号のキャンバスに油彩で本堂を描いたことが懐かしい。入ったことのない墓所に入り歴史探索の気で散策に訪れたことがある。そこに明治天皇の実母の質素な墓所に巡り会え、そして歴史を知った。

 

  よくよく考えてみると、懐かしい中学校は油面小学校の隅にあった校舎時代に、これもかなり前に既に移転している。 移転先の清水町の校舎には愛着もなく一度も行ったことがない。 

   ここでの懐かしい想い出は、近くの油面小学校の片隅にあった素朴で粗末な校舎の三年間に凝縮されている。 

  休み時間の遊びの中心は野球だった。 

 ボールは消しゴムを軸に麻ひもでグルグルと巻いてボールとして使っていた。 これはソフトボールより小さく、硬くバットの芯に当たると良く飛んだ。 考案したのは友人の「元ちゃん」であったと思う。 彼はファーストの守備の時、補球したボールは直ぐに放ったものだ。 いかにも落球したかに見えるが、所作がスマートに見えた。

学校対抗試合の応援にも良く行った。  

北京に住んでいて、しかも戦時中でもあり野球は知らず、相撲の方に興味があった。 

父からクリスマスにグローブをプレゼントされたのが興味を持ち始めたと言ってもいい位だった。 

「投げてみろよ」と友人に言われ、投球をした。「もう少しスピードが出してみろ・・」何球か投げ合ったことが懐かしい。 

 

プロ野球では巨人の川上、東急の大下の赤、青バットが全盛の頃だったと思う。

後楽園球場にはひとりで朝早くから観戦しに行っていた。