確か秋になり、「第一回目黒区立中学校対抗駅伝競走」が十一校で行われた。
日頃の練習コースとして学校を中心として歌手の藤山一郎邸の前を通り過ぎ、目黒区役所の辺りを左折して目黒通りに抜け、清水町そして目黒消防署を過ぎて油面商店街までの周回コースに汗を流し、時には大鳥神社往復の登坂コースなど走り鍛えられた。
指導された先生が足のアキレス腱を切断され、入院先の国立第二病院までお見舞いをしだ記憶がある。
こうして、走者のひとりに選ばれたのは北京の学校で城外に広大に広がるコウリャン畑の彼方に見える煉瓦工場まで走らせられ鍛えられたマラソンの訓練の賜だったと思う。
競技当日の走者の伴走サポートをして呉れたのは元ちゃんであった。
当日は授業中に早期退席をして昼食をとるように言われた。 昼食の早飯食いを公認され、ふたりして何だか心地よい気分になった記憶がある。
目黒通りの都立大前(細い川があり、小さな橋があった地点)から自由ケ丘(登り切った坂の上までの地点)までの登坂の第三区間を走った記憶である。
コースは未舗装の部分もあり、道路沿いには、まだ畑が残って長閑な田園風景であった。
少しでも足を軽く走りやすくするために母が白足袋に足袋底を厚く縫込み、それを履いて臨んだ。当時はまだ競技用の靴はなかった。
九着でバトンを引き継ぎ、次の走者にバトンを辛うじて抜き八着で渡せた。
登坂コース一本だったので苦しかった記憶がある。 結果は九着だった。
参加賞がノート一冊で、質素なものだった。
このほかに、陸上競技の四〇〇メートル・リレーに第二走者で走り、予選で勝ち取ったものの決勝では最下位で敗退した。
競技場は当時の第一師範(現東京学芸大)のグランドだった記憶である。
ここで北京時代の学友に奇遇にも会ったのには驚いた。
何がそうさせたかの経緯の記憶はないが、元ちゃんからふたりして推理小説を執筆しようと言われ、目黒消防署の裏手にあった彼の自宅を訪ね構想を練ったことがあった。
その作品に暗号を組み込んでサスペンスの要素を組み入れれば推理効果を高められるとなった。
その暗号とは縦横斜めと、いずれを足しても15になる九文字からなるクロスワードである。
知られたくない秘密を九文字に隠して知らせるのだ。 しかも詠歌になっているとは・・。
「294と思えば 753 618は 十五夜の月」
印象が強かったのか忘れずにいる。