昨秋の中頃、十数年振りに「卒業して六十五年 最後の同期会」の案内を、いつもの代表メンバーの名で頂いた。その折、短い短い中学時代を一気に記憶を頼りに記述して見たいと言う気になった。母校は平成二十七年三月をもって統廃合され校名は消えるが、過ぎし想い出は永遠に消えない。
昭和二十二年(1947年) 春。
ここ東京の目黒区下目黒四丁目に越してきた。
ここ目黒は中国から引き揚げてきて生活を始めた地であり、戦前に次兄が生まれ病死した地でもある。 そして本籍地でもある。
新制中学第一期生として入学した。
同校は油面小学校の校庭の隅に三棟の平屋建ての校舎を建て一学年のみで発足となる。先輩がいないので何となく長閑だった。 私はひとりだけの転入生でもあり友人もいなく緊張していた。
南の空に火事の火煙が上った。 朝礼前なのに、野次馬の騒ぎにのり数人が走りだした。 細い路地裏を走り、いつしか自分も後について走っていた。 火事の現場は清水町の市場だった。(戦火に追われ逃げ惑うとは、こんな生易しい物ではない事は分かっていた)
現場は既に下火になり、野次馬で混み合い、いつしか、友ともはぐれてしまった。 この時、人混みに後ろから背を押され前に倒れてしまった。
「痛い・・」と思い、腿の辺りを見ると有刺鉄線でズボンが深く破れ、生地の下から血がみるみるうちに滲み出してきた。
学校に戻るにしても地理不案内でひとりでは来た道が分からず止むを得ず、分かり易い目黒通りを歩き、油面交番を左折して学校に戻った。 校庭には朝礼の最中で全校生徒が並んでいた。
本来なら叱られる筈が、ズボンが血で染まっていたために手当てが先行され難を逃れた。 気まずかった。 (でも、「行ったのは僕ひとりでない・・」)
こうして目黒での中学校生活が始まった。
開校時の授業は机と椅子が生徒の半分しか用意されず、後の半分は遅れるとのことで、交替で使うことになった。
転校して友も少なく、そのせいかクラスも一年次は何組かも記憶が薄く覚えていない。 しかし担任の女の先生のことは鮮明に覚えている。 国語の専任で石川啄木を熱く語っていた。
いつしか私も感化され歌集「一握の砂」の詩を読んだり後年になり岡田英次主演の映画「雲は天才である」を観たり、岩手県渋民村の「石川啄木記念館」、盛岡市内の「もりおか啄木賢治青春館」にも訪ねている。
当時は知る由もなかったが、我が家は南部藩士の出身だと知った。
二学年なると、クラス替えがありE組となる。このクラスメートは二年目に入ったこともあり、何故か良く覚えている。いまでも旧交を温めている友がいる。
担任の先生は英語と美術が専任だったと記憶している。
三学年のクラスはD組での担任の先生は国語の専任だった。
このほかの先生では歴史の「ジャンバルジャン」こと教頭先生、数学の「法界坊」先生いずれもあだ名は覚えていても名前が中々出てこなくなってきた。
この他にも社会の先生、体育の先生、音楽の女の先生、理科の女の先生と、なかなか六五年もの時間が過ぎると記憶を覚睡させるには厳しいものがあるようだ。
授業の中で戦争に関する話はなくなり、憲法改正の話は記憶に刻み込まれている。