歴歩

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公州市 大通寺跡の近くから銘文瓦など多量に出土

2018年04月02日 | 韓国の遺跡・古墳など
 忠淸南道公州市班竹洞(공주시 반죽동) 大通寺址 (대통사지) 幢竿支柱から150m離れた地点で熊津首都期百済瓦と塼石など大量の遺物が出土した。
 「大通」とみられる字がある銘文瓦(명문기)も見つかった。国立公州博物館にある「大通」銘文瓦と模様が似ているという。瓦は三国史記に出てくる「風が吹いて瓦が飛んで行った」という記録のようにとても薄い点が特徴。
 これらの遺物は一定な層上で多量に出土したことからみて、大通寺跡にあった建物が再建築されたり、廃棄される時に一度に埋められたとみられる。
 「大通」は、南朝梁の武帝(464∼549)の治世527~529年の間に使った元号であり、大通寺は百済聖王(在位523~554)が建てたと伝えられる。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009-03-08慶州市 新羅初めての寺院『興輪寺』の名前を刻んだ瓦片が出土 
523年 聖王が即位。武寧王陵を築造する。
526年 熊津城を修復する。
527年 大通寺を建立する。百済最初の本格的な寺院である。
 大通寺式の瓦当は梁(南朝)の直接的な技術支援を受けて、段階的に成立。慶州で発見された興輪寺(真興王5年(544)に新羅が最初に建設した寺院)式瓦当は、大通寺式瓦当をモデルにし、百済―南朝系(梁)、特に百済の直接的な支援によって製作されたと考えられている。
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韓国・慶州市 新羅初めての寺刹『興輪寺』の名前を刻んだ瓦片が出土

2009年03月08日 | Weblog
 今年3月5日に、新羅最初の寺と伝えられる慶州・興輪寺(흥륜사)の名前を刻んだと見られる新羅筒瓦(수키와)片が出土したことが報じられた。
 もう少し詳細を調べていくと、国立慶州博物館が、最近寺の跡地と推定している市内沙亭洞の慶州工業高校の構内排水路工事から収集された400箱分の瓦遺物を洗浄して「興輪寺」とみられる銘文を刻んだ新羅時代の瓦彫刻を確認したという。
 この瓦片は筒瓦(つつがわら、牡瓦)の破片(大きさ10.7cm×5.7cm)で、丸みを帯びた背中側に縦に『○(王?)興○』という銘文が刻まれている。
 博物館は、本来の銘文は『大王興輪寺』と推定し、学校一帯が興輪寺址である可能性を高める考古学的証拠であるとする。
 『興』の字は、最近国立扶余文化財研究所が発掘調査した扶余王興寺址で出土した瓦に書かれた『興』の字とほとんど同じだという。(注:写真を見ると両者共に『典』に似た形で刻まれている。) さらに『興』の字の上下に書かれた文字は一部分だけ残っただけで正確な判読が難しいが、各々『王』と『輪』と推定。この名前はまさに真興王5年(544)に新羅が最初に建設した寺刹の興輪寺を示す公算が非常に大きいとする。
 これまで興輪寺の場所は学界では、慶州工業高校南側800m地点の場所と、今回の興輪寺と慶州工業高校という主張が拮抗していたが、後者とする見解がさらに高まるであろうとみている。ただし今回発見された銘文瓦片は、正式あるいは本格的な発掘調査過程で出土したわけでなく、排水施設の工事過程で取り出した土砂から収集されたという点が物足りないとする。いずれにしても、今回の銘文瓦発見は、興輪寺の位置を確認するのに決定的な糸口になるものとみられる。
博物館はこの他にも『○○寺』という字を書いた牝瓦彫刻(10.5cm× 10.7cm)も確認したが、『寺』の直ぐ前の文字は残っている痕跡から『興』である可能性があり、このことから三国史記と三国遺事に見える新羅初期寺刹の「永興寺」(영흥사)の関連性も考えることができると付け加えている。
[参考:聯合ニュース]
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