歴歩

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彦根市・稲部遺跡 古墳時代初頭の矢入れ具・靫が出土

2023年06月30日 | Weblog
 彦根市などが28日、大規模集落跡・稲部遺跡(弥生時代末期~古墳時代初頭)で、3世紀中頃(古墳時代初頭)の箱形の矢入れ具「靫(ゆき)」の断片が見つかったと発表した。
2019年の発掘調査で集落跡の導水施設の溝から、ガラス玉や土器とともに断片12点が出土。2本の帯状の織物製品で、矢筒に巻く横帯と判明した。1本はほぼ全体が残存し長さ18.7cm、もう1本は長さ17.1cmで、紐を通す輪が付いていた。素材は、縦糸が絹、横糸は植物繊維で綾織(あやおり)の技法が用いられているという。表面には漆が塗られていた。
纒向遺跡(奈良県桜井市)の出土品と並び、同時期の靫と判明した。
水辺で行う 祭祀で威儀具として使ったと考えられるという。
[参考;読売新聞、産経新聞、毎日新聞、日経新聞、朝日新聞、京都新聞、東京新聞]

過去の関連ニュース・情報
稲部遺跡

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胎内市・城の山古墳 国内最古の弓装飾「両頭金具」2点と中国製「盤龍鏡」を確認

2013年01月15日 | Weblog
 新潟県胎内市教委は15日、大和政権の勢力下にあったとされる同市大塚内にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城(じょう)の山古墳」から昨年9月までに見つかった副葬品を調査したところ、国内最古とみられる弓の装飾品「両頭金具」2点と中国製(注1)の「盤龍鏡」を確認したと発表した。
 両頭金具は約2cmで、鉄製とみられる。 これまで、長野市若穂川田の大星山3号墳(直径16mの円墳、4世紀第3四半期)から出土したものが国内最古とされていたが、同古墳の年代などと比較し、出土した両頭金具は数十年遡ることが判明したという。
 また、盤龍鏡は直径約10cmの銅鏡で、裏面に龍の文様がみられた。中心の鈕に紐を通したような跡があった。 布でくるまれていた可能性もあるという。 中国の後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られたものとみられる。 近畿以西を中心に出土している。
 城の山古墳からは、銅鏡や勾玉など、近畿地方でよくみられる副葬品がそろって出土し、大和政権の影響がこの地域に及んでいたと考えられることとなった。 調査では、ヒスイ製の勾玉や大刀など計19点が、古墳時代前期の出土品としては本州最北だったこともわかった。
 3月3日に胎内市産業文化会館でシンポジウムが開かれ、出土品を一般公開する予定という。


(注1) 仿製鏡の可能性もあるらしい。
(注2) 鉄斧(てっぷ)などが布に包まれて副葬されていた。

[参考:共同通信、日経新聞、時事通信、読売新聞、新潟日報、NHKニュース]

大和政権から伝来?…新潟「城の山古墳」の銅鏡(読売新聞) - goo ニュース

副葬品に中国製銅鏡=重要人物を埋葬か―大和政権下の「城の山古墳」・新潟(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
2012.9.6 城の山古墳 未盗掘の古墳から畿内的要素を持つ副葬品が出土
 4世紀前半の城(じょう)の山古墳(東西41m、南北35m、高さ5mの楕円墳)から、長大な舟形木棺や弓2張、靫(ゆき)、刀剣、銅鏡、ヒスイの勾玉、凝灰岩製管玉、ガラス玉、大刀、銅鏃、鎗、鉇(やりがんな)、斧(注2)などの副葬品100点以上が未盗掘の状態で出土した。
2011.10.23 太宰府市・大宰府跡 弓金具の「両頭金具」が出土
 両頭金具は両端に突起物をつけた芯棒を筒状金具に入れ、弓の両端に穴を開け装着する。


2013.11.27追記
 胎内市教委が28日、「城の山古墳」(4世紀前半)で、被葬者のものとみられる歯が見つかったと発表した。
 歯はエナメル質表面の減りが少ないことから若い人物(10〜20代)の可能性があるとしている。
[参考:共同通信、時事通信、毎日新聞]


キーワード; 槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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松江市・石屋古墳 埴輪の塗り分けで国内最古を確認

2012年11月08日 | Weblog
 昭和53年(1978)に松江市・石屋古墳の発掘調査で出土した埴輪の破片が、複数の色に塗り分けられた埴輪(注1)としては国内最古になることが島根県教委の調査でわかった。
 (注1)弓矢を入れる道具「靫(ゆぎ)」をかたどった埴輪片が赤と緑の2色に塗り分けられていた。
 これまでの調査で、5世紀中頃に作られたことが判明しているが、このような複数の色に塗り分けられた埴輪は、関東地方を中心に5世紀後半以降の古墳から見つかっており、この埴輪がなぜ出雲地方の古墳から出土したのか、また、関東地方までどのようにして伝わったのかを明らかにしたいとしている。
[参考:NHK島根、山陰中央新報]

過去の関連ニュース・情報
石屋古墳
 2012.3.9 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と判明
 2008.9.3 緑色顔料は、石屋古墳で出土した埴輪の盾に塗られたり、いずれも五世紀後半。
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新潟県胎内市・城の山古墳 未盗掘の古墳から畿内的要素を持つ副葬品が出土

2012年09月06日 | Weblog
 胎内市教委は6日、同市大塚にある4世紀前半の城(じょう)の山古墳(東西41m、南北35m、高さ5mの楕円墳)から、長大な舟形木棺や弓(注1)、靫(ゆぎ)(注2)、刀剣、銅鏡、勾玉、管玉、ガラス玉、大刀、銅鏃、鎗、鉇(やりがんな)、斧などの副葬品100点以上が未盗掘の状態で出土したと発表した。 城の山古墳は同時期の古墳では日本海側で最も北にある。 北部日本海側では例のない、ヤマト政権期の畿内的要素を持っており、市教委は「初期ヤマト政権と同盟関係にあった王の墓」とみている。
 大和政権の直接的な影響が及んだ範囲はこれまで、石川県能登半島の国分尼塚1、2号墳(七尾市)や雨の宮古墳群(中能登町)が北限と考えられてきた。
 今春より、古墳上部にある長さ約10.5m、幅約5mの墓坑の調査を行っていた。
 主体部から長さ8m、幅1・4~1・8mの舟形木棺が見つかった。人骨片も残り、頭部を北東に向け、木棺やそれを覆う粘土には多量の赤色顔料(水銀朱とベンガラ)がまかれていた。
 副葬品には小型銅鏡(直径9cm)や大刀(長さ67cm)、ヒスイの勾玉、凝灰岩製管玉、ガラス玉、銅鏃など畿内の古墳にみられる遺物が残っていた。靫は黒漆塗りだった。 築造時期は4世紀第2四半期(316年-330年)とみられる。
 現地説明会が8、9両日の午前10時と午後1時に開かれる。

(注1)弓は2張が見つかっており、黒と赤の漆の塗料が付着していた
(注2)靫は革製で表面には刺繍で描かれた菱形の模様が残っていた。塗られていた黒漆も確認された。
[参考:産経新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、朝日新聞]

大和政権、新潟まで影響力? 城の山古墳から銅鏡や勾玉(朝日新聞) - goo ニュース



キーワード: 城の山古墳、槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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足利市 機神山山頂古墳 葺石施した2段墳丘

2008年08月19日 | Weblog
 市教委は18日、織姫神社がある機神山(はたがみやま)山頂古墳の第1次発掘調査結果を発表した。
 葺石が施された2段築成の前方後円墳で、葺石は石室がある南側正面だけでなく北側も丁寧に造られた本格的な古墳であることが確認された。
 調査の結果、2段目の墳丘は全長36m、高さ4m以上あった。斜面にはチャートの割り石を積んだ葺石が施され、傾斜は45度から60度と急だった。墳丘1段目には葺石はなく、全体に山すその斜面を削り出してテラスおよび1段目墳丘を造っていた。葺石は墳丘の崩落を防止したり、見栄えを良くしたりするために造られたらしい。
 また北側中央のくびれ部テラス部分からは、円筒埴輪がほぼそのままの形で南北に2基並んで据えられて出土した。また他の調査個所からは馬、太刀、楯、翳(さしば)などの埴輪片約千点が出土したが、これらはもともと墳頂に並んでいたものが転落したものらしい。
 同古墳は古墳時代後期(六世紀後半)に造られたと見られ、明治26年(1893)に行われた調査では石室から鏡、馬具、勾玉などの副葬品や埴輪などが出土。昭和48年(1973)に市指定史跡になった。今回は墳丘の斜面など7カ所に溝を掘るなどして規模や形状を本格的に調べた。
 市教委は「小首長クラスの古墳のため、周囲から見られることをかなり意識して造られたのでは」と説明している。
 機神山から両崖山にかけての標高53mから118m、東西500m、南北600mの範囲の尾根上と斜面に26基の古墳が点在、機神山古墳群と呼ばれている。
同市内には、約1300の古墳が残っており、今回調査を行った機神山山頂古墳は、墳頂部の標高が118mと古墳群のなかでも最も高い場所に位置し、市街地全体を見渡せることなどから、古墳群のなかでも有力な首長の墓であったと考えられるとしている。
 同古墳は普段は立ち入り禁止となっているが、市教委は23日午前十時から正午までの間、現地説明会を開き一般に公開する。
[参考:下野新聞、産経新聞、読売新聞、東京新聞]

<機神山山頂古墳の位置関係>
 東400mに足利市役所、南1kmに利根川、東南1kmに足利館、鑁阿寺、北東5kmに先の大日如来坐像で話題になった樺埼寺がある。

<現地説明板より>
 機神山の頂部を占める本墳は後円部を東、前方部を西に向けて築造された前方後円墳である。紛糾の全長は約36m、後円部径と前方部幅はともに約19m、高さとともに約3mで、見事な二子塚形である。
 本墳の埋葬施設である横穴式石室は、奥壁、両側壁、天井石すべてに割石(硅岩)をもって胴張袖無型に構築上し、後円部の南に開口するが、石室内には(被葬遺体の副うように)直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、勾玉、小玉や馬具(杏葉1、轡1)、須恵器などが納められ、また封土(墳丘)には人物、馬、鳥、家、靫、楯などの形象埴輪や円筒埴輪が樹てられていた。
 山頂に盛土した本墳は山腹に群在する古墳群(主に小型円墳)の主墳であれば、領民が挙(こぞ)Tってつくったものにちがいない。眼下にいろがるおのれの支配じを睥睨(へいげい)し権威を誇示するようであるが、また黄泉の国から領民たちを見守る姿でもある。本墳はおよそ六世紀代にこの地一円を治めた支配者の奥津城(墳墓)であろう。
(昭和53年6月 市重要文化財指定) 昭和61年7月  (財)足利市民文化財団、足利市教育委員会
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