左写真は本堂、 右写真は山門
臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺 (盛岡市北山2-16-8)
江戸時代前期(1624-1644)、東禅寺(臨済宗妙心寺派)の住職・東岩和尚が開創。 盛岡五山(注1)のひとつ。
寛文11年(1671)、南部家第29代重信が、第30代行信の母堂・大智院の菩提のために建立(再興)して、法泉寺と称したとされる。 この時の中興開山が朱巌和尚である。 寺領百石。
(注1) 南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた際に、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼び領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めた。
[参考:法泉寺HP、「盛岡の寺院」(盛岡仏教会1995発行)]
金森兵部頼錦の墓 右写真に見える墓の左面(裏面)には「金森兵部頼錦」と刻まれ、その表面には法号が刻まれ、美濃郡上の方を向いている。
金森頼錦の終焉の地・盛岡
金森頼錦(1713-1763)の墓が法泉寺にあるというので、出掛けてみる。寺に着くと、東側に墓地が見える。丘陵の斜面に細長く広がっており探すのが非常に大変そうである。 お寺を訪ねて、場所を教えていただいた。 先ほどの墓地とは反対側の寺の西側、数軒ほどの民家を越えた場所にある。往時は、寺の境内であったそうだ。 金森頼錦の墓は上り坂を上がって、さらに背丈ほど少し高くなったところにある。 墓だけが、ぽつんと一基、見晴らしのよい場所にある。 法号が刻まれた墓碑面は故郷を向いているようだ。大事に葬られたことが窺える。 墓の前には説明板が立っている。
金森兵部(ひょうぶ)の碑
金森兵部は少輔(しょうゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)3万8千石の藩主でしたが、宝暦八(1758)年に領民騒擾(そうじょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになりました。
盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇しておりましたが、宝暦九年二月の流謫(るたく)から四年余り過ぎた同十三(1763)年六月に病死しております。享年五一歳。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものです。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきました。
金森家は長く謹慎の身に置かれておりましたが、嫡孫靱負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元(1789)年に遺骨は江戸へ引き取られております(注4)。
碑の前面に「
曹雲院殿性海善理大居士」(注2)の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」(注3)の没年が刻まれています。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われます。
平成十六年三月 盛岡市
(注2) 東京広尾・祥雲寺(臨済宗大徳寺派)での法号は「覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士」
(注3) 実際には「宝暦十三癸未禩」「六月六日」と刻まれている
(注4) 頼錦死から26年後、金森家再興の翌年寛政元年(1789)に頼興(1753-1797)は遺骨を引き取り火葬の上、京都・大徳寺あるいは江戸・祥雲寺に改葬したとしている。
2005年6月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉66 工藤利悦(注5) 南部家お預かりの大名の由来とその後(3)
2006年11月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉140 工藤利悦 郡上八幡金森様ご病死につき
(注5)工藤利悦氏: 「近世こもんじょ館」(盛岡市)主宰
に、頼錦の盛岡での日常の様子および埋葬のことが記されている。
頼錦の死後、遺骸は長さ6尺8寸5分(2.1m)、高さ1尺9寸4分(0.6m)、横2尺8寸6分(0.9m)の箱に入れ、いっぱいの塩が詰められた。
その後、頼錦の孫靱負頼興(注6)の代、天明八年(1788)に1500石で名跡を継ぐことが許され、頼興は翌寛政元年(1789)祖父(注6)の遺骨を引き取るため僧等を引き連れ、盛岡に到着、火葬の上法事万端を済ませ江戸に帰ったという。 「篤焉家訓(とくえんかくん、市原篤焉筆)」によれば、遺骸を掘り出したところ、形は少しも損なっていなく、塩は固まってきれいであったという。 その後、京都紫野大徳寺寺中にある金森家墓所に葬られたとしている。
(注6)頼興は頼錦の六男のはずで、間違いでは?
過去の関連ニュース・情報
2011.5.27 渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として