歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

青森県南部町・聖寿寺館跡 館を方形に改修し「花の御所」の模倣?

2022年10月19日 | Weblog
青森県南部町教委が18日、北東北最大の戦国大名、三戸南部氏が15世紀末から16世紀前半、拠点を置いた「聖寿寺館」(青森県南部町)を方形館にするため大改修していたことが分かったと発表した。
「虎口(こぐち)」を埋め立て、敷地を方形に整えた改修跡を確認した。
方形館は「花の御所」と呼ばれた室町幕府の将軍邸を模倣し各地の守護大名が取り入れた。その流行が北東北にも伝わっていたことが確認された。
 10月22日(土)、午前10:30~11:30、史跡聖寿寺館跡(三戸郡南部町大字小向字舘4-2)にて発掘調査現地説明会が開催される。
[参考:共同通信、東北日報、毎日新聞、南部町HP]

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  聖寿寺館跡
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青森県南部町・聖寿寺館跡 北東北で初めて犬形土製品が出土

2018年08月30日 | Weblog
 青森県南部町教委会は28日、戦国大名・三戸南部氏の居城だった国史跡「聖寿寺館跡」(同町小向)で、中世の犬形土製品が出土したと発表した。これまで国内各地の有力大名の居城跡などで発見されているが、北東北では初めてで、本州北端まで広がっているのが確認された。
 犬形土製品は、中世で安産祈願のお守りとして使用されたとされる。
 出土したのは当主が居住していたとされる中心区画。手で粘土を成形した手づくね製犬形土製品(高さ3.5cm、長さ6.5cm、幅2.2cm)で、両前脚や両後脚、耳、尾が欠損しているが、欠損箇所は摩耗し、壊れた後も大切にされていたことがうかがえるという。
 出土した周辺から、瀬戸美濃端反皿など16世紀前半の遺物が見つかっており、同時期のものと推測される。近畿地方で製作され持ち込まれた可能性が高い。三戸南部氏が畿内と直接交流していたことが分かる発見という。
 同様の製品は、南東北から九州までの各地で出土しており、東北では宮城県仙台市の仙台城跡、山形県酒田市の亀ケ崎城跡、福島県伊達市の梁川城跡などで見つかっていた。
 出土した犬形土製品は、史跡聖寿寺館跡案内所で9月1日~10月31日まで特別公開される。
[参考:東奥日報、デーリー東北新聞、毎日新聞、朝日新聞、河北新報、NHKニュース、ATB青森テレビ]

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 聖寿寺
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盛岡市 聖寿寺 南部英麿氏の墓参

2016年06月26日 | 盛岡
 
 6月19日(日)に盛岡市内の盛岡藩南部家お殿様の菩提寺・臨済宗妙心寺派 大光山 聖寿禅寺(盛岡市北山2丁目12-15)へ行ってきました。
 そこには、南部英麿氏の墓があります。南部英麿氏は安政3年(1856)9月11日,盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれました。兄の利恭氏は第41代南部家当主になりました。
 英麿氏は私の出身校・早稲田中学校の初代校長です。東京専門学校(現、早稲田大学)の初代校長でもあります。
 墓には、「明治43年5月14日歾 齢55」と刻まれています。
 また、墓の左にある手水鉢(右写真)には「奉納 早稲田中學校 早稲田中學校校友會」と刻まれています。

 「早中七十周年記念録」(昭和40年10月)の「早中明治物語」の中で、明治29年4月5日午後1時、早稲田尋常中学校の開校式が東京専門学校の大講堂で行われ、先ず大熊英麿(南部英麿)が壇に立って開校の挨拶を行ったことを記しています。

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青森県南部町・聖寿寺館跡 昨年出土した2つの青磁片は元時代の青磁鉄斑文瓶の一部か

2012年10月30日 | Weblog
 南部町教委は28日、国史跡・聖寿寺館(しょうじゅじたて、別称・本三戸城)跡から昨年出土した黒い斑文のある青磁片2個(注1)が、中国・元時代(13~14世紀)の青磁鉄斑文瓶(せいじてっぱんもんへい)の一部とみられることが分かったと発表した。
 青磁鉄斑文(飛青磁)は中国の元(13~14世紀)時代に斬新な作風として龍泉窯(浙江省)で盛んに焼かれた。
 青磁鉄斑文瓶は全国で、大阪市立東洋陶磁美術館蔵(国宝)を代表として蔵品も数少ないが、出土例も数例しかないという。
 奥州南部氏が同地に居住し始めた時期は未詳だが、鉄斑文様のある青磁器は、館が焼失した天文8(1539)年以前のもので、同館城主・三戸南部氏の隆盛ぶりを示す貴重な史料としている。 ちなみに、館が焼失した時の城主は南部家第24代当主安政(1517-1582、後に晴政に改名)。
[参考:東奥日報、デーリー東北、青森県南部町HP、広報なんぶちょう「平成23年10月号」]

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 南部家

(注1)デーリー東北新聞社の記事に貼付されている2つの青磁片のうち1つには条が見られる。
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盛岡市・臨済宗妙心寺派 大智山 法泉寺 「金森頼錦の墓」

2011年10月20日 | 盛岡

左写真は本堂、 右写真は山門

臨済宗妙心寺派 大智山法泉寺 (盛岡市北山2-16-8)
 江戸時代前期(1624-1644)、東禅寺(臨済宗妙心寺派)の住職・東岩和尚が開創。 盛岡五山(注1)のひとつ。
 寛文11年(1671)、南部家第29代重信が、第30代行信の母堂・大智院の菩提のために建立(再興)して、法泉寺と称したとされる。 この時の中興開山が朱巌和尚である。 寺領百石。
(注1) 南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた際に、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼び領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めた。
[参考:法泉寺HP、「盛岡の寺院」(盛岡仏教会1995発行)]


 金森兵部頼錦の墓 右写真に見える墓の左面(裏面)には「金森兵部頼錦」と刻まれ、その表面には法号が刻まれ、美濃郡上の方を向いている。

金森頼錦の終焉の地・盛岡
 金森頼錦(1713-1763)の墓が法泉寺にあるというので、出掛けてみる。寺に着くと、東側に墓地が見える。丘陵の斜面に細長く広がっており探すのが非常に大変そうである。 お寺を訪ねて、場所を教えていただいた。 先ほどの墓地とは反対側の寺の西側、数軒ほどの民家を越えた場所にある。往時は、寺の境内であったそうだ。 金森頼錦の墓は上り坂を上がって、さらに背丈ほど少し高くなったところにある。 墓だけが、ぽつんと一基、見晴らしのよい場所にある。 法号が刻まれた墓碑面は故郷を向いているようだ。大事に葬られたことが窺える。 墓の前には説明板が立っている。

 金森兵部(ひょうぶ)の碑
 金森兵部は少輔(しょうゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)3万8千石の藩主でしたが、宝暦八(1758)年に領民騒擾(そうじょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになりました。
 盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇しておりましたが、宝暦九年二月の流謫(るたく)から四年余り過ぎた同十三(1763)年六月に病死しております。享年五一歳。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものです。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきました。
 金森家は長く謹慎の身に置かれておりましたが、嫡孫靱負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元(1789)年に遺骨は江戸へ引き取られております(注4)。
 碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」(注2)の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」(注3)の没年が刻まれています。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われます。
平成十六年三月 盛岡市

(注2) 東京広尾・祥雲寺(臨済宗大徳寺派)での法号は「覚樹院殿前兵部侍郎茅山清藍大居士」
(注3) 実際には「宝暦十三癸未禩」「六月六日」と刻まれている
(注4) 頼錦死から26年後、金森家再興の翌年寛政元年(1789)に頼興(1753-1797)は遺骨を引き取り火葬の上、京都・大徳寺あるいは江戸・祥雲寺に改葬したとしている。
 2005年6月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉66 工藤利悦(注5) 南部家お預かりの大名の由来とその後(3)
 2006年11月10日盛岡タイムス 〈古文書を旅する〉140 工藤利悦 郡上八幡金森様ご病死につき
            (注5)工藤利悦氏: 「近世こもんじょ館」(盛岡市)主宰
に、頼錦の盛岡での日常の様子および埋葬のことが記されている。
 頼錦の死後、遺骸は長さ6尺8寸5分(2.1m)、高さ1尺9寸4分(0.6m)、横2尺8寸6分(0.9m)の箱に入れ、いっぱいの塩が詰められた。
 その後、頼錦の孫靱負頼興(注6)の代、天明八年(1788)に1500石で名跡を継ぐことが許され、頼興は翌寛政元年(1789)祖父(注6)の遺骨を引き取るため僧等を引き連れ、盛岡に到着、火葬の上法事万端を済ませ江戸に帰ったという。 「篤焉家訓(とくえんかくん、市原篤焉筆)」によれば、遺骸を掘り出したところ、形は少しも損なっていなく、塩は固まってきれいであったという。 その後、京都紫野大徳寺寺中にある金森家墓所に葬られたとしている。
(注6)頼興は頼錦の六男のはずで、間違いでは?

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.27 渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 金森家の菩提寺として

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