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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都市上京区・相国寺旧境内 戦国時代の二重の堀跡が出土

2011年03月08日 | Weblog
 同志社大学が発掘調査を進める、同大今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、新たに戦国時代(16世紀)とみられる二重の堀跡が見つかった。
 堀跡は相国寺旧境内の西端にあり、南北方向に幅約5m、深さ1.7mで、約100mにわたって伸びていた。断面は逆台形であった。堀の下層から戦国時代16世紀の土器が出土した。15mほど東から平行して同じような堀が出土した。
 相国寺周辺は応仁の乱(1467~77)の発端となり、室町幕府管領家の細川勝元らの東軍が陣を敷いたことから戦闘が相次いだ。相国寺東端には堀があった記録があり、外敵の侵入を防ぐために、全体を強固な堀で防衛したことが考えられるとしている。
 発掘調査現地説明会は12日(土)午前11時から開かれる。
[参考:読売新聞、同志社大学歴史資料館・相国寺旧境内と薩摩藩邸跡の発掘調査速報ブログ]

過去の関連ニュース・情報
 相国寺旧境内
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栃木県那珂川町・那須官衙遺跡 古代の道路跡発見

2011年03月06日 | Weblog
 那珂川町教育委員会が発掘調査をしている那須官衙遺跡で2日までに、正倉から南へ150m離れた場所で、古代の道路跡(幅8・5m)が見つかった。奈良から平安時代にかけて整備され、正倉付近を通っていることから、幹線道路の一つとみられる。
 瓦や須恵器片も数点出土した。
 現地説明会が6日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:2011.3.3下野新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.8.28那須官衙遺跡 大規模な区画溝を確認、政庁の区画か
 2008.11.22 那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 国史跡に国文化審が答申

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福井県・越知山 泰澄ゆかりの地から奈良時代の須恵器片発見

2011年03月06日 | Weblog
 越前町教委は3日、同町大谷寺の越知(おち)山(標高612m)山頂付近で、奈良時代中期の須恵器片1点を発見したと発表した。越知山は同時代の白山信仰の祖、泰澄(682-767)が14歳で修行を始め、また晩年を過ごした山として知られ、また、持統天皇9年(695)に泰澄が開山したとの伝承がある。 日野山や文殊山など泰澄が修行したという話が伝わる県内の山では、これまで8~9世紀の須恵器が見つかっているが、越知山では発見されていなかった。
 同山山頂付近の殿池から流れる小川沿いで破片を見つけた鯖江市の男性が、昨年10月に町教委に持ち込んだ。町教委が周辺の調査を行い、新たに鎌倉から明治時代までの越前焼や磁器など計9点を採集した。
 須恵器片の大きさは縦8・5cm、横5・6cm、厚さ7~11mm。形状から甕(最大径約35.5cm)の一部とみられる。使われている土の鉄分が多いため表面に黒い斑点があり、表面は窯の中で薪の灰がふりかかったものが溶けてガラス化した薄緑色の自然釉がかかっており、奈良時代中期の西暦740年から760年ごろ、越前町の佐々生、樫津地域の高温窯で焼かれた須恵器と焼き方や土、自然釉の色などが似ているため、この窯で焼かれたとみられる。
 当時、山は神聖な場所とされ、一般の人たちは登らなかった。甕は水や食料を保存するのに使われていたことから、山岳修験者などが寝泊まりする宿坊が山頂にあった可能性が高いとしている。
 今回見つかった須恵器の年代は740~760年ごろと推定され、「泰澄和尚伝記」で泰澄が白山から越知山に戻ったと伝わる758年にも近い。
[参考:福井新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.08.18 立山・剱岳山頂の錫杖頭 制作年代特定できず

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栃木県市貝町・頼朝塚古墳群 古墳時代終末期の一辺18mの方墳を確認

2011年03月06日 | Weblog
 栃木県埋蔵文化財センターは市貝町市塙の頼朝塚古墳群の発掘調査で、小貝川上流の芳賀郡ではこれまで確認されていない古墳時代終末期(7世紀)の方墳1基を確認したと発表した。
 頼朝塚古墳群は市貝町役場の北東約500mの山中にあり、6世紀から7世紀の古墳12基の存在が確認されていた。
 今回調査したのは12号円墳と13号方墳。方墳は縦横18mで盛り土の高さ約50cm。横穴式石室?の南側から瓶や坏などの須恵器の破片が見つかった。
 円墳も終末期の造営と思われ、直径は約20m。外周に溝があり北側の溝から割った須恵器の瓶1点が出土した。
 現地説明会が6日(日)午前10時30分からと午後1時30分からの2回開催される。
[参考:下野新聞、とちぎ県文化財センターHP]

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堺市・寺山南山古墳 長方形の方墳と判明

2011年03月04日 | Weblog
 堺市は、百舌鳥古墳群の一つで、一辺38m(高さ4m)の方墳で陪塚と考えられていた寺山南山古墳(堺市西区上野芝町1丁1)の範囲確認調査で、長方形の方墳であることがわかったと発表した。
 墳丘テラスの埴輪列と上段斜面の葺石を検出した。埴輪列は30・5m×33・5mに並んでいたとみられ、古墳も長方形だったことが判明した。
 現地公開が、5日(土)午前10時30分~午後4時まで行われる。
[参考:毎日新聞、堺市HP]
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横浜市・矢上台遺跡 慶大矢上キャンパスで弥生時代の大集落跡、60棟以上の竪穴住居跡

2011年03月04日 | Weblog
 慶応大学は2月25日、横浜市港北区日吉の慶大矢上キャンパスのテクノロジーセンター(仮称)建設予定地で弥生・古墳・奈良時代(1~8世紀)にわたる60軒以上の竪穴住居跡を確認したと発表した。 3月3日報道陣に公開した。
 今回の発掘調査地を含む矢上台遺跡は住居の密集度が高く、慶大は約9万㎡の遺跡内に1千軒を超える住居が存在していたとみている。
 今回見つかった竪穴住居跡のうち1軒は床面積が100㎡前後ある巨大なものだった。ほかに、弥生土器、土師器、須恵器、弥生時代の指輪状青銅器などが出土した。
 矢上台遺跡と南側に隣接する日吉台遺跡群は、弥生時代後期から終末期に大集落が形成され、この地域が弥生時代後期・終末期に鶴見川流域一帯の中核的集落群だった可能性が高いとする。 さらに矢上台遺跡の東端には4世紀の観音松古墳(注1、全長約100mの前方後円墳)が見つかっており、弥生から古墳時代の集落の中心の移り変わりを研究する点でも重要という。
 現地見学会が3月5日(土)午前10時に開かれる。
[参考:2011.2.26朝日新聞、2011.3.3共同通信]

注1: 神奈川県で最大の前方後円墳は、逗子市桜山と三浦郡葉山町長柄の境界にある長柄桜山古墳群(ながえさくらやまこふんぐん)1号墳(4世紀)の全長90mとされている。 観音松古墳は86mとか約90mなどとされているが、慶応大学文学部安藤広道准教授の最近の調査で、全長100mを超える可能性が高いと推測されている。


中心部が矢上台遺跡。矢上小の場所には、かつて観音松古墳が存在した。さらに、その東南500mに全長約90mの加瀬山白山古墳が存在した。
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明石市・長坂寺遺跡 幻の駅家「邑美駅」である可能性が限りなく高まる、6日に現地説明会

2011年03月04日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館の調査で長坂寺(ちょうはんじ)遺跡(明石市魚住町)が、古代山陽道の明石駅と賀古駅のほぼ中間地点にあたる、古文献に記載のない幻の駅家(仮称「邑美(おうみ)駅」)である可能性が限りなく高まったとする。
 平成20、21年度の2年間にわたる地中レーダーによる探査の結果、反応があった溝状の「落ち込み」に囲まれた一辺80mの規模の方形区画の発掘調査を実施した。
 遺跡から、東西南北に走る直線的な溝跡があることがわかったほか、溝の内側からは、建物の柱の穴も見つかった。見つかった溝の方向を結んでみると、ほぼ東西南北の方位に向く80~90m四方の方形区画となることを確認した。 これまでに明らかになっている布勢駅家跡(たつの市)や賀古駅家跡(加古川市)の中枢施設である「駅館院(やっかんいん)」の規模に一致するという。
 現地説明会が、3月6日(日)午後1時30分から開催される。
[NHK神戸放送局、兵庫県立考古博物館HP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.11 明石市・長坂寺遺跡 古代山陽道の邑美駅跡か

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大分市・羽田遺跡 県内初の仏具・磬が出土

2011年03月03日 | Weblog
 今年2月、平安時代末期(12世紀後半)の原形をとどめた大型の羽釜鋳型が出土した羽田遺跡(大分市羽田)で、新たに同時期の仏具・磬(けい)の鋳型が発見された。 県内初であり、当時地方でも梵音具が必要になってきたということがわかるという。
 先月末、土坑に埋まっている羽釜鋳型を掘り出す過程で、羽釜鋳型のすぐそばから対になった縦9cm、横12cmの梵音具の鋳型の一部が見つかった。もとの製品は長さ20cm、幅4.5cm程度と推定される。 鋳型に銅を流し込み、梵音具を作った後、捨てられたとみられる。 梵音具は、寺や役所などで読経や人を集める時などに鐘のように打ち鳴らしたと考えられるという。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、NHK]

過去の関連ニュース
 2011.2.18 大分市・羽田遺跡 平安末期の大型の羽釜の鋳型が出土
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別府市・鷹塚古墳 鬼の岩屋古墳を超える県内最大級の巨石墳

2011年03月03日 | Weblog
 別府大学文化財研究所の調査で、1年前に県内最古の方墳(一辺30m以上)と分かった同市春木の鷹塚(たかのつか)古墳(6世紀後半)が、大規模な羨道を持ち、5mを超える巨石を使った県内最大級の巨石墳だということが分かった。
 同古墳は、2008年度から同研究所が調査している。これまでに、棺のある玄室と外部をつなぐ羨道の全長が8m、幅が2・6mと判明。県内最大の石室とされた市内で同時期、同様規模の鬼の岩屋古墳(同市上人西)を超える規模だった。側壁が赤く彩色され、羨道部の石の積み方や石材も九州型の古墳である鬼の岩屋古墳と似ており、装飾古墳である可能性も高いという。
[参考;大分合同新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.26 鷹塚古墳 古墳時代後期末の方墳と断定、同時期県内初


キーワード: 鷹塚古墳
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佐賀県・吉野ヶ里遺跡 弥生時代中期の2つの甕棺墓列が交差

2011年03月03日 | Weblog
 吉野ヶ里遺跡(神埼市、吉野ケ里町)の北墳丘墓の北北西の丘陵で、弥生時代中期前半から中頃(紀元前2~同1世紀)のほぼ同時期に作られた墓の2つの列が交差する形で作られていたことが佐賀県教育委員会の発掘調査で確認された。
 甕棺墓およそ1500基が南北に600mにわたり約2m幅の2列の直線上に並んでいたのが確認されていたが、今年度の調査でその列に交差するように別の甕棺墓の列が作られていたことが確認された。新たに見つかった墓の列は、96基の墓が北西から南東におよそ130mにわたり約2m幅の2列の直線上に並んでいた。 墓の列はほぼ同じ時期に先に作られていた南北の列を崩さないようにまたぐように交差されていた。 甕棺墓列には共同体の厳しい規制があり、二つの墓列が交わることはこれまで考えられないとされてきた。
 墓の列はそれぞれ別の集団が作ったものと考えられ、2つの勢力が友好的に共存しクニの原形を作っていた可能性を示す資料と見て注目されている。
[参考:毎日新聞、NHK佐賀]
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朝来市・池田古墳 完全な形の水鳥形埴輪が初出土、累計23体に 埋葬の祭礼に使用か

2011年03月02日 | Weblog

 (写真は「発掘された日本列島2010」で展示された池田古墳出土水鳥形埴輪)

 兵庫県立考古博物館は2日、朝来市和田山町平野の池田古墳(全長141mの前方後円墳、5世紀前半)から、ハクチョウなどを模した水鳥形埴輪(高さ48cm、幅21cm、長さ44cm)が初めて完全な形で出土したと発表した。 他の7体とともに、古墳中央東側にあるくびれ付近の「造り出し」に沿って出土した。 水鳥形埴輪は葬送の祭礼に使われたとみられるという。
 他の埴輪と比べ精巧につくられており、土の色が茶色っぽく、黒雲母などが含まれていることなどから、但馬で作られたものではなく、大和・河内の工人が作った可能性があるとしている。 巣山古墳(奈良県葛城市)で見つかった水鳥形の埴輪とよく似ているという。
 2009年10月時点で、水鳥形埴輪が15体見つかっており、今回新たに見つかった8体を含めて累計23体となった。 応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)の15体を上回り最多となった。
 ほかに、兵庫県で初めての蓋形木製品(埴輪)が出土した。
 現地説明会が3月5日(土) 13:30に開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、兵庫県立考古博物館HP]

完全な水鳥形埴輪が初出土=葬送に使用か、全国最多に―兵庫・池田古墳(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.9 池田古墳 後円部北側外縁部の葺石が見つかる
 2010.6.28 「発掘された日本列島2010」を見て
 2009.10.30 池田古墳 墳丘東側の造り出しから第2段目葺石部までを調査中、11月3日に現地説明会
 2009.2.20池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土
 2008.12.20 池田古墳 現地説明会 12/23

2011.12.3追記
 朝来市教委は、池田古墳で後円部から円筒形埴輪の破片十数点が出土したと発表した。
 周濠の端は確認できなかったため、周濠の規模を確定することができなかた。
 現地説明会が3日(土)午前11時から開かれる。
[参考:毎日新聞]
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岐阜市・岐阜城下町遺跡 斉藤道三の城下町遺構を初確認

2011年03月02日 | Weblog
 岐阜市教育委員会は1日、岐阜城下町遺跡(岐阜市松ヶ枝町)の発掘調査で、戦国武将斎藤道三が、後に岐阜城となる稲葉山城があった稲葉山(現・金華山)の麓に築いたとされる城下町の遺構が初めて確認されたと発表した。
 16世紀中期の斎藤道三の時代に築かれた武家屋敷の一部とみられる掘立柱建物の跡や井戸、屋敷の庭園に使ったとみられる石組み遺構、武家屋敷の敷地を区画する幅約5mの溝などが確認された。今回確認された地下約1mの遺構の上層には、火災によって焼けた土や炭の層が約10cmの厚さで堆積していた。消失した建物のものと思われる炭や、中国・明時代の青磁や白磁、瀬戸・美濃産陶器など同時代の陶磁器の破片も土中から発見された。 信長家臣の太田牛一が記録した「信長公記」には、永禄10年(1567)信長が美濃に攻め入り、城下町に火をつけたという記述があり、今回の発見はこの記述の裏付けとなった。
 またこの直後、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが信長と面会するため訪問しており、1569年に書かれたイエズス会への報告書の記述とも符合しているとする。
 現地説明会は5日(土)午前10時から12時まで開催される。 同時に「信長公居館発掘調査」の現場一般公開も行われる。
[参考:共同通信、読売新聞、岐阜市HP]

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羽曳野市・峯ヶ塚古墳 前方部の南西隅と周濠の一部を確認

2011年03月02日 | Weblog
 羽曳野市教委は1日、峯ケ塚古墳(5世紀末、前方後円墳)で前方部の南西隅と周濠の一部を確認したと発表した。
 墳丘の裾部分から円筒埴輪の破片、周濠からは転がり落ちた葺石がそれぞれ見つかった。
 5日午前10時から午後3時まで現地を公開。フェンスで囲まれ、普段は立ち入れない墳丘内も見学できる。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.25峯ヶ塚古墳 周濠南側内堤に土塊を用いた盛土

峯ヶ塚古墳 (羽曳野市軽里2丁目)
 周辺には仁賢陵古墳や白鳥陵古墳の大型前後円墳が多く築かれている。
 墳丘長96m、後円部径56m、前方部幅74mの前方後円墳。二重の周濠と堤をもつ。昭和49年に国の史跡に指定。
 5世紀末から6世紀初頭に築かれた、大王陵クラスの古墳とみられる。
 これまで9回の発掘調査が行われ、なかでも第4次調査では後円部の主体部が調査され、幅広の竪穴式石室か竪穴系横口式石室の一部と豪華な副葬品が発見された。阿蘇産凝灰岩の石棺が納められていたとみられ、石室内部には金銅製の魚形の飾りを付けた太刀15本以上や挂甲・馬具・ガラス玉や管玉など3,000点を越える副葬品が発見された
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豊橋市・普門寺旧本堂(元々堂)跡 寺の創建が10世紀まで遡ることを確認

2011年03月01日 | Weblog
 豊橋市教育委員会は1月25日、同市雲谷(うのや)町にある普門寺の旧伽藍址(きゅうがらんし)の第4次発掘調査(元堂址(もとどうあと)の調査)により、寺の創建が10世紀まで遡ることが確認できたと発表した。これまでの同伽藍址調査では、12~13世紀(鎌倉および室町時代)までの遺構など確認されていたが、今回調査では10世紀の灰釉陶器が大量に見つかり、創建年代は一挙に200年以上古いことが明らかになったとする。
 1月29日(土)に現地説明会が開催された。
[参考:2011.1.26東愛知新聞、豊橋市HP]

備考
 「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開創したとされる。
 嘉応年間(1169~1171年)に兵火にあって焼失。
 養和年間(1181~1182年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.8普門寺旧本堂(元々堂)跡で岩盤を削った基壇が見つかる
 2008.12.5普門寺旧伽藍址 元堂址で新たに基壇見つかる 
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松江市・美保神社境内遺跡 勾玉の製作跡

2011年03月01日 | Weblog
 島根県古代文化センターと國學院大学(東京)は28日、美保神社境内遺跡(松江市美保関町)の共同学術調査の結果、神社創建前の古墳時代中(5世紀)頃に勾玉が製作され、その場で祭祀が行われていたと発表した。
 1996年に、旧美保関町教委が同遺跡の約250㎡を発掘調査し、土器や深い碧色の青めのう(碧玉)約500点を含む遺物約1万点が出土した。
 再調査で、青めのう2点を製作の途中で破損した勾玉と断定した。 17個の破片を結合してこぶし大の母岩が復元できた。
 県内での勾玉製作跡は、古墳時代から平安時代の31遺跡で確認されているが、玉作湯神社が鎮座する松江市玉湯町周辺が多い。美保神社から出土した青めのうも約30km南南西にある玉湯町の花仙山(かせんざん)から切り出された碧玉だった。 遺跡まで運び、製作したとみられる。
 祭祀の場で製作が確認された例はこれまで県内にはなく、航海の安全を祈願したとみている。建物遺構が確認されていないため、神社創建前から実施されていた可能性が高いという。
 関連出土品は、3月2日から27日まで出雲市の県立古代出雲歴史博物館(出雲市)で展示される。
[参考:中国新聞、日本海新聞、日本海テレビ、産経新聞、読売新聞]
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