浄土宗 長青山 寶樹寺 梅窓院 (港区南青山2―26−38)
寛永20年(1643)、青山幸成(よしなり、1586-1643)が逝去した後、下屋敷内に側室・長青院(不明、?-1669)を開基、戴蓮社頂譽上人冠中南龍和尚(?-1670)を開山として建立された。 増上寺十二世・中興普光観智国師(慈昌、1544-1620)を勧請して開山祖としている。
幸成の法名「梅窓院殿前大府香譽浄薫大禅定門」と、 側室の法名「長青院殿天譽利白大姉」 から寺号を「長青山 寶樹寺 梅窓院」という。
山門の額「長青山」の文字は本山知恩院弟83世門跡量誉信宏(1888-1979)上人の筆による。 江戸名所図会によると、往時の惣門の額は黄檗悦山(おうばくえっさん、1628-1709)の筆によるものであったという。
山門の瓦当には、12菊の左右に葉がある青山菊が描かれている。 新しい墓石にも同じ家紋が刻まれていた。
墓地には、一角に青山幸成(右)と長青院(左)の墓が並んでいる。
青山幸成の墓には「寛永二十癸未□ 梅窓院前大府香誉浄薫大禅定門 二月十六日 儀」と刻まれている。
長青院の墓には「干時寛文九天 長青院殿天誉利白大姉 拾月十九日」と刻まれている。
他には「梅窓院開基 青山宗家累代之墓」としてまとめられ、隣に「青山宗家歴代霊位」として初代から十三代までが刻まれた墓碑が建てられている。
青山幸成の父は青山忠成(1551-1613)。 兄に青山忠俊(1578-1643)がいる。 幸成は郡上藩青山家初代と称されるが美濃郡上藩主の初代になるのは4代後、青山幸道(1725-1779)の時から。
金森家の金森頼時の時に郡上藩主になるが、2代藩主金森頼錦(よりかね、1713-1763)の時に改易となった。
なお、新本堂棟は隈研吾(くまけんご)氏の設計により平成15年(2003)に完成し、翌年11月に落慶式が執り行われた。
関連情報
青山忠俊
寛永20年(1643)、青山幸成(よしなり、1586-1643)が逝去した後、下屋敷内に側室・長青院(不明、?-1669)を開基、戴蓮社頂譽上人冠中南龍和尚(?-1670)を開山として建立された。 増上寺十二世・中興普光観智国師(慈昌、1544-1620)を勧請して開山祖としている。
幸成の法名「梅窓院殿前大府香譽浄薫大禅定門」と、 側室の法名「長青院殿天譽利白大姉」 から寺号を「長青山 寶樹寺 梅窓院」という。
山門の額「長青山」の文字は本山知恩院弟83世門跡量誉信宏(1888-1979)上人の筆による。 江戸名所図会によると、往時の惣門の額は黄檗悦山(おうばくえっさん、1628-1709)の筆によるものであったという。
山門の瓦当には、12菊の左右に葉がある青山菊が描かれている。 新しい墓石にも同じ家紋が刻まれていた。
墓地には、一角に青山幸成(右)と長青院(左)の墓が並んでいる。
青山幸成の墓には「寛永二十癸未□ 梅窓院前大府香誉浄薫大禅定門 二月十六日 儀」と刻まれている。
長青院の墓には「干時寛文九天 長青院殿天誉利白大姉 拾月十九日」と刻まれている。
他には「梅窓院開基 青山宗家累代之墓」としてまとめられ、隣に「青山宗家歴代霊位」として初代から十三代までが刻まれた墓碑が建てられている。
青山幸成の父は青山忠成(1551-1613)。 兄に青山忠俊(1578-1643)がいる。 幸成は郡上藩青山家初代と称されるが美濃郡上藩主の初代になるのは4代後、青山幸道(1725-1779)の時から。
金森家の金森頼時の時に郡上藩主になるが、2代藩主金森頼錦(よりかね、1713-1763)の時に改易となった。
なお、新本堂棟は隈研吾(くまけんご)氏の設計により平成15年(2003)に完成し、翌年11月に落慶式が執り行われた。
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青山忠俊
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