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桜井市 箸墓古墳 前方部に幅60mの外濠

2008年08月27日 | Weblog
 邪馬台国の女王卑弥呼の墓の説がある前方後円墳、箸墓古墳(3世紀半ば-後半、全長約280m)で、前方部正面外側から幅60-70mと推定される外濠跡が見つかったことが、27日同市教委の調査で初めて分かった。
 国内最大の仁徳天皇陵(堺市、5世紀、全長485m)に匹敵する大規模な周濠が、仁徳陵の200年近く前に整備されていたことを示す極めて貴重な発見で、被葬者論争にも新たな一石を投じることになりそうだ。
 市教委が5~7月、前方部前面にあたる南西約70m、水田約110㎡を調査し、大きな「落ち込み状遺構」(深さ1・3m以上)を35m分確認。落ち込みはそのまま前方部の墳丘に向かって広がっていたとみられ、古墳の周囲を大規模に掘削した周濠と判断した。底に水があったことを示す腐植層(植物が腐って土になった層)があった。落ち込みと墳丘の位置関係や出土した土器の年代から、外濠の一部と判断した。
 過去の調査でも前方部の側面2カ所で周濠の一部らしいものが見つかり、市教委はこれまで周濠の幅について前方部は約30m、後円部は約50mと推定していた。(また、ある記事では「これまで周濠の明確な痕跡は認められておらず、学界でもその存在を疑問視する声が根強かった」と記す。) 今回は墳丘南側で確認された。墳丘を一定幅で一周する幅60~70mの大規模な馬蹄形で、内堤を挟んで内濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定。周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450mになった。
 同古墳の墳丘は宮内庁の陵墓に指定されており、学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれている。
 こうした中、桜井市教委や奈良県立橿原考古学研究所は10年以上前から墳丘の周辺を丹念に発掘。その結果、大規模周濠の存在を突きとめた。市教委の橋本輝彦主任は「60m以上という周濠の幅は、実に古墳1つが入るほどの大きさ。周濠によって、被葬者と外部との隔絶性をより明確にしたのだろう」と推測する。
 被葬者については、248年ごろに死亡した卑弥呼か、後継の女王・臺与との説があり、大規模周濠の発見は被葬者の強大な権力の存在を示し、こうした説を裏付ける証拠になるとみられる。 卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。
 日本書紀は、箸墓古墳の築造を「昼間は人が夜は神が造った。大坂山の石を山から墓まで人々が連なり手渡しで運んだ」と、その壮大さを伝えている。墳丘を一定の幅で囲む大規模周濠の存在が明らかになったことは、箸墓古墳が前方部の周濠が著しく狭い「箸墓以前」の前方後円墳と一線を画すことを示す。これまで確認された墳丘のふき石や、内堤と墳丘をつなぐ渡り堤の存在と合わせて、箸墓古墳が後の古墳の原形だったことを改めて裏付けた。
 大規模周濠は5世紀の大型古墳などにみられ、3世紀の箸墓古墳には存在しないという見方があったが、学説の見直しも迫られそうだ。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

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