歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

三ツ城古墳/東広島市 年輪年代測定により築造年代が判明

2009年01月27日 | Weblog
 広島県内最大の前方後円墳「三ツ城(みつじょう)古墳」(国史跡、東広島市西条中央)1号墳(前方後円墳)の築造年代が、広島大や市教委などの調査で26日分かった。
 西側造り出しから出土した須恵器が大阪府南部の堺市を中心とした陶邑(すえむら)窯跡群で5世紀前半に焼いた「TK73型」と分かっていた。
 1996年、奈良市・平城宮朝集殿下層の溝の調査で、樹皮直下の年輪が残るヒノキ材が出土。廃棄されたTK73型須恵器が68年に見つかったのと同じ地層の溝だったことから、奈良文化財研究所が年輪年代測定法で調べ、412年伐採と判断した。
 広島大大学院の古瀬清秀教授(考古学)が、両遺跡とも須恵器の型式編年観と実年代に整合性があり、一型式が20年前後であることを総合的に検討。実年代がほぼ確定するのは全国で初めて。

 5世紀初頭に三ツ城古墳が築かれた東広島市・西条盆地は、奈良時代には安芸国分寺が置かれた。
 同古墳の出現は、西条の首長が広島市・太田川下流域の首長層も統括し、国分寺に先立つ350年前に「安芸」の地域的まとまりができたことを物語る。
 同古墳の須恵器は、大和政権と関係が深い陶邑で焼かれ、葬祭具として与えられた。多くの埴輪も近畿から運ばれた可能性がある。しかも全長92mの同古墳は、5世紀前半の履中天皇陵(365m)、吉備(岡山県西部)勢力の首長墓である造山古墳(360m)と相似形である。
 大和政権は4世紀末―5世紀前半、朝鮮半島との間で緊迫した状況にあり、国内的には強大な吉備勢力は脅威だった。瀬戸内ルートの安芸勢力との連携の背景には、そうした情勢がうかがえるとする。
[参考:中国新聞、産経新聞]
三ツ城古墳の築造年代判明(中国新聞) - goo ニュース
築造で「安芸」のまとまり(中国新聞) - goo ニュース

 三ッ城古墳は、丘陵を利用して造られた3基の古墳からなる古墳群です。
 1号古墳は全長92mの前方後円墳(後円部径62m、高さ13m、前方部幅66m、高さ11m)で、左右に造出がある。広島県内では最大の古墳です。墳丘は3段に築かれ斜面は葺石で覆われている。各々の段には、円筒、家形・短甲・鶏などの埴輪が約1800本立て並べられている。
 第2号古墳は円墳。第3号古墳は楕円形の古墳。3つの古墳とも埋葬施設には箱形石棺を採用している。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 口明塚南古墳/豊橋市 金銅... | トップ | 田ノ浦遺跡/山口県上関町 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事