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東近江市・金貝遺跡 奈良時代後半~平安時代初期の荘園開発跡

2008年12月02日 | Weblog
金貝遺跡 掘立柱建物跡など発見 現地説明会12/7
 滋賀県文化財保護協会が1日、金貝遺跡から奈良時代後半から平安時代初頭にかけての大型掘立柱建物8棟と用水路の遺構などが発見されたと発表した。周辺には大安寺(奈良)の荘園があったとされることから、同協会は水田開発の拠点であり荘園を開拓した勢力の居住地だった可能性があるとしている。
 掘立柱建物8棟は、うち2棟が特に大きく、1棟が幅9・7m、奥行き5・8m、もう1棟は幅約9・2m、奥行き4・8mの広さがある。いずれも南東側に庇が付く構造で、この地域に住んだ有力者の居宅あるいは、荘園の経営に直接かかわる荘官の屋敷と考えられる。8棟とも壁面の向きや位置がそろえられており、計画性が見られるという。(前に見つかった三間社流造の神社本殿跡も同様に南東側に庇が付く構造。)
 建物の北から見つかった同時期の水路は人工的に開削された灌漑用水路と考えられ、ほぼ直線に伸びる約63mを確認。幅2・5~4・5mで、深さは0・8mと計測されたが、両岸が後世に削られていることから、当時はもう少し深かったと考えられる。
 愛知川に近い、低い場所では古墳時代から水田があったことに対して、現場は愛知川の河道面よりも高い段丘にあり、開発が遅れた地域だったのではないか。愛知川との間にいくつも用水路があることから、川の水位より高い土地に水を送る灌漑技術を持った集団が住み着いたのではないかと、同協会はみている。地元に「狛(こま)の長者」が愛知川から水を引いたという伝承が残ることから、渡来系の人々の開発とも考えられるという。
 奈良時代半ば以降、743(天平15)年「墾田永年私財法」が発布され、農地開発が活発となった。遺跡は、農地開墾の奨励を受け水利の悪いこの地域に用水を引いて開発した跡とみられる。
 協会は金貝遺跡の現地説明会を7日午後1時から開催。同日午後2時半からは野村町公民館で、近くの野村遺跡の発掘成果と併せて調査結果報告会を開く。問合せは同協会。
[参考:中日新聞、産経新聞、読売新聞、(財)滋賀県埋蔵文化財保護協会]

[10月14日掲載分]
 10月4日に行われた、表題の現地説明会資料(PDF)が(財)滋賀県埋蔵文化財保護協会のホームページにて公開されています。
 その中で、特記すべき事項を上げると、
①遺跡は愛知川低位段丘層(標高約138m)に立地している。
②隣接する遺跡から、奈良時代(8世紀)および平安時代前期(9~10世紀)、平安時代後期(12世紀)の用水路が見つかっている。
 水田開発のため、安全と安定的な水供給確保のために「社」を建築して祈願したのではと推測できる。
③三間社流造の建物の規模は2間×3間(約6m×約7m)で身舎(もや)が構成され、その南東側に長さ約3mの庇がつく。
 各柱間の寸法は、梁行・桁行ともに2mで、6尺5寸(1.97m)を一定の基準とし、庇の部分は梁行が約3mで10尺(3.03m)を基準としていたと推定される。
  備考)大宝律令制定(701年)後は、唐尺(1尺=29.63cm)を使用していたが、桓武天皇の頃あるいはそれ以降1尺=30.3cm(10/33m)を用いた。
 建物は南東側が正面である。
④神社建物跡から北東750m、愛知川傍に鎮座する河桁御河辺(かわけたみかべ)神社は、延喜式神明帳に記載された川桁神社であることが有力視されている。その本殿も三間社流造であり、神社建物跡は、この河桁御河辺神社の前身ではないかと推定される。
[参考: (財)滋賀県埋蔵文化財保護協会HP]

備考1)
 神社建物跡は南東側を正面にしている。その反対側、すなわち北西方向には箕作山(標高372m)、さらにその奥には繖(きぬがさ)山(別名観音寺山、標高433m)が聳える。夏至の時期に太陽は丁度、箕作山に沈む。写真は神社建物跡から北西方向を見た、夏至時のカシミール3D作成図である。夕方の太陽の沈む軌道を添えた。
備考2)
河桁御河辺(かわけたみかべ)神社 東近江市神田町381
祭神 天湯河桁命 (配祀)瀬織津比神、稲倉魂命
 「社蔵文書によれば、宣化天皇四年(539)、当地の名族玉祖宿称磯戸彦連が勧請し、桓武天皇延暦三年(784)二月初午日の神祭が、今日の例祭日となっている。(略)延喜式の神名帳の川桁神社が当社と言はれているのは定かでないが、この時代から神田村を神領としたと伝えている。(略)
 社名については、「輿地志略」に御川辺の御名は、愛知川の源、君ヶ畑に惟喬親王(894~897)の宮居があったから、川の名は御川といゝ、川の辺に鎮座の故に御川辺大明神と元慶年(877-84)の再建の時に号したと記されている。古くは柿御園十八ヶ村の崇敬を受け、中世以後は旧御園村全域の崇敬を集め、三川辺大明神と称したが、明治初年に今の社名となった。(略)」(『滋賀県神社誌』より)
備考3)
天湯河桁命
 鳥取連の祖として、「新撰姓氏録』に、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也 との記載がある。
 大阪・柏原市高井田付近を昔は鳥取郷といい、河内六大寺の一つ鳥坂寺(とさか)跡でもある天湯川田神社は天湯川田桁命(あまゆかわたけのみこと)と天湯川田板拳命(あまゆかわたなのみこと)を祭神としている。日本書紀・垂仁天皇23年の条に、「皇子誉津別(ほむつわけ)は30才になっても言葉を話せなかったが、ある日飛ぶ鵠(くぐい)を見て言葉を話した。天皇は天湯河田板拳に勅命して鵠を追わせた。湯河板拳は遠く出雲で捕え献上した。誉津別はこの鵠をかわいがり遂に話すことができるようになった。天皇はこれを賞して湯河板拳に鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を与えた」とある。
 鳥取連との関連も興味のあるところ。

<10/1> 東近江市・金貝遺跡 平安前期の神社本殿「三間社流造」の遺構が見つかる
 滋賀県文化財保護協会は1日、東近江市の金貝(かなかい)遺跡で、平安時代前期(9~10世紀)に建てられた、神社本殿の建築様式の基本とされる「三間社流造」の遺構が見つかったと発表した。
 本殿は掘っ立て柱建物で幅約6m、奥行き約7m、正面に柱が4本並ぶ。階段を支える柱の穴も見つかっており、高床式とみられる。直径約50cmから1mの柱穴が2-3m間隔で16カ所あり、柱穴の配置から、正面の庇が長くせり出し正面の幅が三間(約6m)ある三間社流造の神社建築と判断した。
 建物跡の南東約60mにあった別の掘立柱建物跡で、9世紀後半から10世紀前半とみられる墨書土器が出土しており、神社建築跡も同時期の可能性が高い。
 流造形式は、地面に直接埋める掘立柱ではなく、礎石や木材など柱を乗せる土台があるのも特徴とされてきた。ところが、発見された遺構は、流造でありながら掘立柱であったことから、これまでの学説が覆される可能性がでてきた。
 さらに、より古い様式の「神明(しんめい)造」の特徴を併せ持っていることも確認され、これまで別系統とされていた両様式が、神明造から三間社流造に発展していた可能性が浮上した。
 広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)は「2系統が別々に発展したと考えられていた神社建築史を根底から崩す大発見。屋根で覆われていない正面の階段が雨で傷みやすく、地面に直接埋めた掘立柱も腐りやすいといった神明造の欠点を、段階的に改良することで三間社流造に発展していったという想定が可能になった」と話している。
 流れ造りでは12世紀の宇治上神社本殿(京都府宇治市、国宝)、三間社流れ造りでは鎌倉時代の1219年に再建された神谷神社本殿(香川県坂出市、国宝)がこれまで最古とされていた。神社建築の起源を知る上で重要な遺構という。
 現地説明会は4日午後1時半から。
[参考:時事通信社、共同通信、産経新聞、京都新聞]
滋賀で平安前期の神社本殿跡 流れ造り形式で最古(共同通信) - goo ニュース

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