聖武天皇が4年間だけ都を置いた恭仁(くに)京の宮跡(京都府木津川市)で、「朝堂」のものとみられる柱穴4基や、天皇が仕事前に立ち寄る「後殿(こうでん)」の柱穴が見つかったと京都府教委が27日、発表した。
恭仁京は天平12(740)年、聖武天皇が突如遷都して成立し、宮殿が急遽造営されたが、同16年には難波宮に遷され、都としての役目を終えた。朝堂院地区では、これまで周囲を区画する板塀や南門が見つかっていたが、朝堂そのものの跡が見つからず、短命な都だったことから簡易な建物だったとの推測もあった。
今回の朝堂の柱穴は、天皇が執務する大極殿跡の南300mから見つかった。検出した4つの柱穴は、平城宮跡の朝堂とほぼ同規模の直径1・5~1・7mで、東西方向に約3m(当時の十尺)間隔で並んでいた。直径30-50cmの柱が立っていたことが判明。
朝堂が立ち並ぶ「朝堂院」の南門跡など過去の調査結果とも合わせ、東西幅130mと、平城京の3分の2ほどの細い朝堂院区域、平城京と同規模の朝堂が8棟並んでいたと推定されるという。
「続日本紀」天平16年(744)元旦に朝堂に官人を集めて饗応したとの記述があり、今回の発見は、その規模にふさわしい建物の存在をうかがわせる。(天平十六年正月丙申朔、十六年春正月丙申朔。廃朝。饗五位已上於朝堂。)
また、朝堂院地区の北にある大極殿院地区では、中心部の北側36mで、柱穴の下部(直径0・8~1m)3基分が見つかった。大極殿の柱穴と同じ5・1m間隔で並んでおり、天皇が休息する後殿の一部とみられるという。
現地説明会は29日午前10時と午後2時からの2回行われる。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、朝日新聞]
恭仁京は天平12(740)年、聖武天皇が突如遷都して成立し、宮殿が急遽造営されたが、同16年には難波宮に遷され、都としての役目を終えた。朝堂院地区では、これまで周囲を区画する板塀や南門が見つかっていたが、朝堂そのものの跡が見つからず、短命な都だったことから簡易な建物だったとの推測もあった。
今回の朝堂の柱穴は、天皇が執務する大極殿跡の南300mから見つかった。検出した4つの柱穴は、平城宮跡の朝堂とほぼ同規模の直径1・5~1・7mで、東西方向に約3m(当時の十尺)間隔で並んでいた。直径30-50cmの柱が立っていたことが判明。
朝堂が立ち並ぶ「朝堂院」の南門跡など過去の調査結果とも合わせ、東西幅130mと、平城京の3分の2ほどの細い朝堂院区域、平城京と同規模の朝堂が8棟並んでいたと推定されるという。
「続日本紀」天平16年(744)元旦に朝堂に官人を集めて饗応したとの記述があり、今回の発見は、その規模にふさわしい建物の存在をうかがわせる。(天平十六年正月丙申朔、十六年春正月丙申朔。廃朝。饗五位已上於朝堂。)
また、朝堂院地区の北にある大極殿院地区では、中心部の北側36mで、柱穴の下部(直径0・8~1m)3基分が見つかった。大極殿の柱穴と同じ5・1m間隔で並んでおり、天皇が休息する後殿の一部とみられるという。
現地説明会は29日午前10時と午後2時からの2回行われる。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、朝日新聞]
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