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圓教寺 性空上人坐像 頭部に瑠璃の骨壺 本人の遺骨か

2008年08月16日 | Weblog
 西国二十七番札所の天台宗書写山圓教寺(兵庫県姫路市)開山堂の本尊・性空上人坐像(鎌倉時代)の頭部に、人骨のようなものを入れた壺つぼがあるのがX線撮影でわかったと、奈良国立博物館が15日発表した。
 同館では西国三十三所の特別展を機に、岩田茂樹学芸部長補佐らが調査した。
性空本人(910~1007)の遺骨とみられ、寛弘4年(1007)の没後間もなく造られた像が焼けた後、像内の骨壺を鎌倉時代に再興した像に再び納めたという記録とも一致。
 坐像はヒノキの寄せ木造りで、像高89・5cmの等身大。
 X線撮影の結果、頭部の眉間付近で、木箱(高さ、幅、奥行き各13cm)に入った球形の壺(直径10.9cm、高さ10.2cm)を確認。ガラス製とみられ、木箱にぴったり納まるように入っていた。舶来物らしく、これほど大型のガラス製品は当時では相当な貴重品という。栓は木製とみられる。
 中には人骨の影が見えた。壺の中の骨は、数cmの棒状のものと砕いた粉末状になっていた。
 性空上人は、平安中期の966年に書写山(姫路市)に入り、後に圓教寺を開いた。
 「性空上人伝記遺続集」などによると、1007年の性空没後間もなく造られた肖像は弘安9年(1286)に焼け、遺骨の入った瑠璃(ガラス)壺が見つかった。2年後1288年に京都の仏師・慶快によって像が再興され、その際、瑠璃壺が再び納められたと伝わる。壺の存在は江戸時代1734年の修理記録にも記されており、同博物館はこの骨壺がX線写真に写ったものと判断した。
 今回の調査で文献の記述通り、現在の像が鎌倉時代に再興されたものであることも改めて確認できたという。
 同館によると、肖像に本人の遺骨を納めた事例は、園城寺(三井寺、大津市)の「御骨大師像」(智証大師坐像)(国宝、平安時代10世紀)が最古と伝わるが、確認はされておらず、科学的調査で確認できた事例としては今回が最古になるという。
 性空上人坐像は、同博物館で9月28日まで開催中の特別展「西国三十三所 観音霊場の祈りと美で展示。今月17日午後2時から、同博物館で調査結果の解説がある。

 性空の生年には諸説あるが、京都に生まれ、地方官吏を経て出家し、霧島など九州の山々で修行した後、書写山に入り、康保3年(966)に圓教寺を創建したと伝えられる。
 同寺は天台宗の道場として栄え、皇族や貴族らも参詣。性空は「書写上人」とも呼ばれた。
 花山法皇は(968~1008)、書写山に2度にわたり行幸。巨勢広貴(こせのひろたか)に性空の肖像画を描かせたという。原本は残っていないが模写はあり、うつむき加減の坐像は、この肖像画を参考に造られたと考えられている。
[参考:産経新聞、朝日新聞、神戸新聞、読売新聞]

天台宗書写山圓教寺
 姫路城の西北約6㎞の海抜371mの山上にある。
 康保3年(966)性空上人によって開かれた、比叡山と同じ天台宗の修行道場の寺である。
 西国三十三箇所中最大規模の寺院で、比叡山、大山とともに天台の三大道場といわれる寺刹であり、皇族や貴族の信仰が篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。
 寛和3年(986)に、花山法皇が御幸し、円教寺の寺号が与られた。

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