歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

江(江姫)が娘・初姫に宛てた手紙を丸亀資料館で発見

2011年10月17日 | Weblog
 浅井長政の三女で徳川秀忠の正室・江(江姫、崇源院、1573-1626)が、京極高次の妻で江の姉の初(常高院、1570?-1633)の養女となった娘の初姫(1602-1630)に宛てた手紙2通が、丸亀市立資料館(丸亀市一番丁)で見つかった。
 同館によると、将軍家の妻からの手紙を示す「大御台様御文」(おおみだいさまおんふみ)と墨書した桐箱に保管されており、江戸にいた江から初の夫・高次が治める若狭小浜藩(福井県)に送られたものと判断した。
 江は初姫を産んで数日後に、京極家に嫁いでいた姉の初のもとへ養女に出し、生涯、再会できなかったらしい。
 手紙は大高檀紙(おおたかだんし)と呼ばれる最高級紙に散らし書きという形式で書かれている。1通は、「うつくしくも候ハね共」などと重陽(ちょうよう)の節句(9月9日の栗の節句)の祝儀として小袖を送ったことを伝え、「幾ひさしくと、かすかす祝入まいらせ候」と結び、娘の末長い幸せを願っている内容。
 もう1通は初姫からの手紙の返書で、娘が平穏に過ごしていることを喜び、「御文うれしくみまいらせ候 我身もそくさいの御事にて候」と告げている。 初姫から贈られた昆布の礼も添えている。
 2通とも手紙が書かれた年代は不明で、筆跡などから侍女に代筆させたとみられる。
 丸亀市資料館が所蔵する京極家の道具管理簿「御朱印御系図并道具帳(ごしゅいんおけいずならびにどうぐちょう)」の中には、江からの手紙2通が記載されているが、これまで存在が確認されていなかった。今回、展覧会出品のために東京都の京極家から借用した資料約60点の中から同館学芸員が発見。手紙の内容などから江の書状であることが判明した。
 この2通の手紙は15日から同資料館で始まった「浅井三姉妹 初と京極展」で特別公開されている。(~11月27日)
 これまで確認されている江の手紙は、岐阜市にある初(常高院)の菩提寺(注1)・栄昌院に伝わる2通のみであった。
[参考:読売新聞、四国新聞、毎日新聞、NHK,丸亀市HP]

(注1) 初(常高院、常高寺殿松厳栄昌大姉)の菩提寺
① 臨済宗妙心寺派 凌霄山常高寺 (福井県小浜市小浜浅間)
 寛永七年(1630)、常高院栄昌尼が京都妙心寺の槐堂周虎(かいどうしゅうこ)禅師を招いて開祖とし、常高寺を創建。 常高院は後瀬山麓にある常高寺の境内地に葬られている。

② 臨済宗妙心寺派 後背山栄昌院 (岐阜市佐野)
 明治維新をむかえたとき、凌霄山常高寺の尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移った。 しかし、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、常高院の位牌とともに尼僧たちは美濃国方県郡佐野村(岐阜市)へ移り、栄昌院を復興した。 開山は京極家の墓所である臨済宗妙心寺派 泰雲山玄要寺(丸亀市南条町)の十三世南隠和尚。 山号の「後背山」は初(常高院)が葬られている小浜市の後瀬山からとったとみられる。

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.3 米原市・能仁寺遺跡 7代京極高詮の菩提寺の下層から室町時代の庭園池を確認

「末永い幸せを」…離れて住む娘思う江の手紙(読売新聞) - goo ニュース
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 公州市・公山城 漆塗革札甲... | トップ | 千葉県栄町・岩屋古墳 7世... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事