ずいきゅうほうざん ほうおんじ
曹洞宗 瑞鳩峰山 報恩禅寺 (盛岡市名須川町31―5)

山門と本堂、 山門の山額「瑞鳩峰山」は永平寺76世慈眼福海禅師筆によるもの。
応永元年(1394)南部家13代守行(開基、1359-1437)により、三戸八幡宮(注1)の側に南部家代々を弔うため一寺を開創したのが始まり。
足利末期には、寺跡を残すのみとなり、名久井(現・三戸郡名川町)の白華山法光寺(注2)の別院が建てられた。
24代晴政(1517-82)の代に、新潟県柏崎市の香積寺5世通山長徹大和尚(開山)を師と仰ぐ久山舜桂大和尚(2世)によって、法地に格上げ再興され、「瑞鳩峰山報恩禅寺」が建立された。 山号の「瑞鳩峰」とは、開創の地が瑞鳩を象徴とする八幡様の側であったため。
永禄12年(1569)南部家より知行200石が与えられた。
27代利直(1576-1632)の代に、本城を三戸から盛岡(古来方)に移すことにより、慶長6年(1602)、同寺も4世養山玄想大和尚の時に、現在地に移転した。
万治字3年(1660)に南部藩内曹洞208カ寺の総録司に任命され、明治35年(1902)まで続いた。
(注1) 本三戸八幡宮
創建は初代南部光行(1165?-1236?)が、本拠だった甲州から勧請したのが始まり。境内に隣接して別当の金剛院があり代々の墓があったが、天明4年(1784)の大洪水で堂宇と共に流されたと伝えられている。
(注2) 白華山 法光寺 (はっかさん ほうこうじ、三戸郡南部町法光寺)
旧名・名川町にある曹洞宗別格地。 北条時頼(1227-1263)を開基、玉峰損城和尚を開山として、建長年間(1249~1256年)に創建と伝わる。 山号は山門下の池の白連華に由来する。

羅漢堂と、第14代盛岡藩主南部利視筆による扁額。
報恩寺に安置されている五百羅漢は、享保16年(1731)藩主南部利視(1708-1752)の代に、17世曇樹一華和尚が大願主として造立4年の歳月をかけ作られたものと考えられている。 京都の法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人の仏師で木彫り漆塗り。 マルコポーロやフビライの像もみられ、499体が現存する。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行、盛岡報恩寺しおりなど]
曹洞宗 瑞鳩峰山 報恩禅寺 (盛岡市名須川町31―5)


山門と本堂、 山門の山額「瑞鳩峰山」は永平寺76世慈眼福海禅師筆によるもの。
応永元年(1394)南部家13代守行(開基、1359-1437)により、三戸八幡宮(注1)の側に南部家代々を弔うため一寺を開創したのが始まり。
足利末期には、寺跡を残すのみとなり、名久井(現・三戸郡名川町)の白華山法光寺(注2)の別院が建てられた。
24代晴政(1517-82)の代に、新潟県柏崎市の香積寺5世通山長徹大和尚(開山)を師と仰ぐ久山舜桂大和尚(2世)によって、法地に格上げ再興され、「瑞鳩峰山報恩禅寺」が建立された。 山号の「瑞鳩峰」とは、開創の地が瑞鳩を象徴とする八幡様の側であったため。
永禄12年(1569)南部家より知行200石が与えられた。
27代利直(1576-1632)の代に、本城を三戸から盛岡(古来方)に移すことにより、慶長6年(1602)、同寺も4世養山玄想大和尚の時に、現在地に移転した。
万治字3年(1660)に南部藩内曹洞208カ寺の総録司に任命され、明治35年(1902)まで続いた。
(注1) 本三戸八幡宮
創建は初代南部光行(1165?-1236?)が、本拠だった甲州から勧請したのが始まり。境内に隣接して別当の金剛院があり代々の墓があったが、天明4年(1784)の大洪水で堂宇と共に流されたと伝えられている。
(注2) 白華山 法光寺 (はっかさん ほうこうじ、三戸郡南部町法光寺)
旧名・名川町にある曹洞宗別格地。 北条時頼(1227-1263)を開基、玉峰損城和尚を開山として、建長年間(1249~1256年)に創建と伝わる。 山号は山門下の池の白連華に由来する。


羅漢堂と、第14代盛岡藩主南部利視筆による扁額。
報恩寺に安置されている五百羅漢は、享保16年(1731)藩主南部利視(1708-1752)の代に、17世曇樹一華和尚が大願主として造立4年の歳月をかけ作られたものと考えられている。 京都の法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人の仏師で木彫り漆塗り。 マルコポーロやフビライの像もみられ、499体が現存する。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行、盛岡報恩寺しおりなど]
岩手県のある宮大工棟梁の業績調査中に、本URLに出会いました。
標記の件、報恩寺記事3行目「24代晴政(1517-82)の代に、・・・香積寺5世通山長徹大和尚(開山)を師と仰ぐ久山舜桂大和尚(2世)」とあります。久山瞬桂大和尚が師と仰ぐには百数十年経過がありそうですがいかがでしょうか。随分と過去の時代の事ですので失礼はご容赦下さい。出典は「盛岡の寺院-1995盛岡市仏教会」でしょうか。
コメントありがとうございます。
出典は「盛岡の寺院-1995盛岡市仏教会」(資料1)と法恩寺のパンフレット(資料2)を参考にしました。
応永元年(1394)に南部守行(1359-1437、開基)が通山長徹(開山)を招いて創建。
南部晴政(1517-1582)の時に、久山舜桂大和尚(2世)によって法地再興。
とするのが、簡潔なまとめです。
資料1では、永禄12年(1569)南部家より知行二百石が給付されたと記しています。
また、資料2では、法恩寺歴代住職として、開山・通山長徹、2世・久山舜慶(法地開闢)と記しています。
ご指摘の通り、通山長徹と久山舜慶とでは175年ほどの差がありますが、既に亡くなった大和尚を開山にする事例があり(ただ、175年前の大和尚は、珍しい)、法恩寺がその見解を示しているので、それでよろしいのではないでしょうか。