奈良文化財研究所が10日、奈良県明日香村の飛鳥寺で、「飛」「女瓦(めがわら)」「白髪部(しらかべ)」などの文字がある計6点の飛鳥時代の瓦が出土していたことがわかったと発表した。
1957年以降、同寺の発掘調査で出土した瓦を調べ、11点の文字瓦を確認。うち平瓦6点の文字が判読された。
「飛」は飛鳥寺を示し、寺創建期(6世紀後半~7世紀初め)の国内最古の文字瓦の可能性があるという。創建時から「飛鳥寺」と呼ばれていた可能性を示す資料という。
1992年の調査で出土した「飛」とヘラ描きされた文字がある瓦片は、平瓦で縦10cm、横11cm。表面の特徴などから寺創建期の瓦の可能性があり、創建期とすれば、これまで最古とされる中宮寺(同県斑鳩町)出土の文字瓦(7世紀中頃)よりも古い。
日本書紀(8世紀に編纂)には、飛鳥寺について、最初は「法興寺」、次に「飛鳥寺」として現れる。
■『日本書紀』崇峻天皇元年(588)是歳。(略)百濟國遣使并僧惠總。(略)獻佛舍利。百濟國遣恩率首信(略)等進調。并獻佛舍利。(略)蘇我馬子宿禰請百濟僧等。問受戒之法。以善信尼等付百濟國使恩率首信等。發遣學問。』壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。
■『日本書紀』斉明天皇三年(657)七月辛丑(15) 作須彌山像於飛鳥寺西。(略)
女瓦(平瓦)の文字がある瓦は2点あり、いずれも7世紀後半で、女瓦の文字としては最古級の資料という。
女瓦(平瓦)は男瓦(丸瓦)と対になる言葉。
白髪部の瓦も女瓦と同時期のものとみられる。白髪部は第22代清寧天皇(白髪皇子)に仕えた集団をルーツとする。今回の発見で、白髪部が飛鳥寺の瓦生産にかかわっていた可能性が浮上した。
このほか、文字を練習した痕跡とみられる「多」と「名」と記した瓦や、僧を管理する役職の「僧都(そうず)」の文字のある瓦も確認された。
6点の瓦は9月13日まで奈文研藤原宮跡資料室(同県橿原市木之本町)で展示される。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞]
1957年以降、同寺の発掘調査で出土した瓦を調べ、11点の文字瓦を確認。うち平瓦6点の文字が判読された。
「飛」は飛鳥寺を示し、寺創建期(6世紀後半~7世紀初め)の国内最古の文字瓦の可能性があるという。創建時から「飛鳥寺」と呼ばれていた可能性を示す資料という。
1992年の調査で出土した「飛」とヘラ描きされた文字がある瓦片は、平瓦で縦10cm、横11cm。表面の特徴などから寺創建期の瓦の可能性があり、創建期とすれば、これまで最古とされる中宮寺(同県斑鳩町)出土の文字瓦(7世紀中頃)よりも古い。
日本書紀(8世紀に編纂)には、飛鳥寺について、最初は「法興寺」、次に「飛鳥寺」として現れる。
■『日本書紀』崇峻天皇元年(588)是歳。(略)百濟國遣使并僧惠總。(略)獻佛舍利。百濟國遣恩率首信(略)等進調。并獻佛舍利。(略)蘇我馬子宿禰請百濟僧等。問受戒之法。以善信尼等付百濟國使恩率首信等。發遣學問。』壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。
■『日本書紀』斉明天皇三年(657)七月辛丑(15) 作須彌山像於飛鳥寺西。(略)
女瓦(平瓦)の文字がある瓦は2点あり、いずれも7世紀後半で、女瓦の文字としては最古級の資料という。
女瓦(平瓦)は男瓦(丸瓦)と対になる言葉。
白髪部の瓦も女瓦と同時期のものとみられる。白髪部は第22代清寧天皇(白髪皇子)に仕えた集団をルーツとする。今回の発見で、白髪部が飛鳥寺の瓦生産にかかわっていた可能性が浮上した。
このほか、文字を練習した痕跡とみられる「多」と「名」と記した瓦や、僧を管理する役職の「僧都(そうず)」の文字のある瓦も確認された。
6点の瓦は9月13日まで奈文研藤原宮跡資料室(同県橿原市木之本町)で展示される。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞]