天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

三笠宮崇仁親王殿下

2016-12-24 14:03:05 | 時事


三笠宮崇仁親王殿下は、日本の皇族、歴史学者、陸軍軍人であられました。

2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため薨去、享年102(満100歳)。

戦争、特に南京事件に対する御発言などを引用してリテラや一部の言論人が否定派や疑問派を抑え込みに利用して安倍批判を行なっているので、引用されたお言葉を検証してみたいと思います。




「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」


「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう」


「その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国連から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかったと語っていました」



「わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった」


「わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」


「太平洋戦争が終わったときには、もうこれで地球上から悲惨な戦争はいっさいなくなったのだと思いましたが、現状をみると、まことにあさはかな考えだったことがわかります。
 どんな大義名分をつけても、しょせん戦争は殺人です。人を殺すことは最大の罪悪です。戦争放棄を明記した新憲法の精神は、いつまでも大切にしなければなりません」


「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、じつにこの1年間であった。いわば『聖戦』というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とは思いもつかない結果を招いてしまった。
この失敗は軍および日本政府首脳に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたしが南京に赴任していた1年間は、司令官以下この方針の徹底に最大の努力をした。
新政策が発表されるや、軍司令官はただちに『四悪』を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んでいた・・。ところが放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった。正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」


「昭和15年に紀元二千六百年の祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人として大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨事に陥れないように努めることこそ、生き残った私の責務だと考える」


「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」

「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」







日本には江戸時代から神州不滅という言葉がありました。神州つまり神国は不滅であるとの意味で、水戸学の尊王論などに見られ、特に昭和から太平洋戦争終結迄は軍部によるスローガンとしても使用され、戦後GHQによって使用が禁止されました。

崇仁親王は歴史学者でもあられ「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」の発言から"赤い宮様"と呼ばれる時期もありました。

上記にもあるように、殺人は最大の罪悪であるとあります。更に戦争自体が害悪であることは昭和天皇をはじめ、皇室の方々であれば皆同じであり、反対の立場であったでしょう。

歴史学者であられる崇仁親王は神話に基づく日本人の思い上がりがこの戦争を止めることが出来なかったと分析されており、それは昭和天皇の21年の新日本建設に関する詔書にもあるように同様の事を仰られております。

つまり、この時期は敗戦を反省し二度と戦争を起こさぬように国民に反省を促しているのであり、赤い宮様など呼ぶことすら不敬である訳です。
国民の中からも囁かれる戦争責任が昭和天皇に向かないようにする戦前と戦後の二面性の片方を御発言為さりバランスをとられているようにも感じます。

その様な時に虐殺の言い訳や数の論争に関して皇室として発する事が良い方へは転ばないとご判断されたのでしょう。そのお立場から虐殺が無かったなどとは言えないことを国民は理解せねばなりませんし、薨去されるや否やそれを逆手にとって自虐史観に政治利用する左翼こそ赤い宮様などと呼び皇室と天皇陛下の尊崇を破壊し尽くす害悪であると感じます。




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