天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

神雷桜

2016-04-02 02:05:23 | 歴史
閣議決定された大東亜戦争ではなく、太平洋戦争においては大陸への侵略が強調され、靖国に眠る英霊は一部の戦争責任者の為に無駄に死んでいった哀れな被害者とされている。

この戦勝国史観は戦後その戦没者の功績を讃えることは美化しているとされ、散華、英霊と呼ぶ事さえ憚られてきた。

あまりにも多くの戦没者はなにも全てが特攻で死んでいった訳ではなく、餓死や病死或いは戦わずして亡くなる者も相当数いたことも事実だ。

靖国とはその全ての戦死者が英霊と呼ばれ神になれる、そして現人神である天皇陛下の御親拝を賜る約束を信じてここで逢おうと死んでいった。

戦勝国史観はその240万人以上にもなる犠牲者の
多さと敗戦、そして占領政策から第三者的な視点で客観的に分析してしまった。

それは、この国を滅亡の淵に追い込んだ歴史の“OS(オペレーティング・システム)"の正体は何であったのか、
「国家神道」「国体明徴」「八紘一宇」等の軍国主義の政策が誤作動を引き起こしたと分析した。

そして靖国神社はその精神的支柱を維持する装置として問題視される風潮を生み出した。

この様な"第三者的な視点"は戦勝国のバイアスがかかった分析として自虐史観を形成し、平和を維持する上で有効的にバランスしてきたようにも思う。

確かにこの様な分析が誤りであるかと言えばそうではなく、あまりにもマイナスに作用してしまっている。



靖国神社に神雷桜と呼ばれる桜の木がある。



境内に植えられた桜の木は、そのほとんどが戦後を生き延びたそれぞれの戦友会の手によって奉納された記念樹だ。


昭和20年3月21日は特攻機「桜花」を擁する神雷部隊が初めて出撃し、そして一機も母機から離れることなく全機撃墜された日だ。

3月21日 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃
(桜花15機、陸攻18機、戦闘30機)

戦死160名(桜花15名、陸攻135名、戦闘10名)




4月 1日 第ニ回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花3機、陸攻3機)

4月 2日 神雷部隊第一建武隊出撃(零戦4機)

4月 3日 神雷部隊第ニ建武隊出撃(零戦6機)

4月 6日 神雷部隊第三建武隊出撃(零戦18機)

4月 6日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦45機)

4月 7日 神雷部隊第四建武隊出撃(零戦9機)

4月11日 神雷部隊第五建武隊出撃(零戦13機)

4月12日 第三回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花8機、陸攻8機)

4月12日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦17機)

4月14日 第四回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花7機、陸攻7機)

4月14日 神雷部隊第六建武隊出撃(零戦6機)

4月14日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦22機)

4月16日 第五回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花5機、陸攻5機)

4月16日 神雷部隊第七建武隊出撃(零戦9機)

4月16日 神雷部隊第八建武隊出撃(零戦5機)

4月16日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦32機)

4月28日 第六回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花1機、陸攻1機)

4月29日 神雷部隊第九建武隊出撃(零戦10機)

4月29日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦17機)

5月 4日 第七回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花6機、陸攻6機)

5月 4日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦15機)

5月11日 第八回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花3機、陸攻3機)

5月11日 神雷部隊第十建武隊出撃(零戦4機)

5月11日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦22機)

5月14日 神雷部隊第十一建武隊出撃(零戦5機)

5月14日 神風特別攻撃隊として出撃(零戦17機)

5月25日 第九回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花3機、陸攻3機)

5月25日 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃に対する連合艦隊告示

6月22日 第十回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花4機、陸攻4機)

6月22日 第一神雷爆戦隊出撃(零戦7機)

8月13日 第ニ神雷爆戦隊出撃(零戦2機)

8月15日 大東亜戦争終戦

8月18日 桜花創案者の太田中尉、零戦に搭乗し自決未遂

8月21日 部隊解散



戦没者

神雷部隊 (桜花隊) 55
(陸攻隊) 365
(戦闘機隊) 10

建武隊 89

神雷爆戦隊 9

神風特別攻撃隊 187

その他戦死・殉職者 114

合     計 829



靖国神社の御神門をくぐって二本目の桜の木には「神雷桜」の札がかけられている。

「死んだら靖国神社の神門を入って二番目の桜の木で待つように」

「同期の桜」は神雷部隊の隊員の愛唱歌でもあった歌。
桜花隊の宿舎となった鹿屋基地近くの野里小学校の校舎の中で、元気に賑やかに隊員たちはこの歌を歌っていたそうだ。

『花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう』
----------------------同期の桜より

昭和21年の1月に元桜花隊員たち10名ほどが復員船で沖縄西方海上で慰霊祭を執り行ない
殉国神雷の志士に捧げた言葉の抜粋。


『思へば祖国のために散るを
男子一代の光栄として「同期の桜」を唱和せしあの日の姿 今尚ほ眼底にあり』



『我等 長らふと言へ共「特攻神雷」の精神に
未だもとりなきを信ず』


『友よ 霊あらば 来りて我が雄図を護れ
此処に一輪の花を捧げて
兄等の神霊を慰めむとす
来たり受けよ』
     

昭和21年1月18日
     神雷残党有志





野中五郎大佐は次のように言い残した。

「成功すればめっけ物だが、そう簡単にはいくまい。俺は陸攻機の腕っこきを連れてゆく。これで駄目なら、もう誰がやっても駄目だ」

「俺で駄目だったら、糞の役にも立たぬ特攻など、ぶっつぶしてくれ」


神雷部隊指揮官として当初は反対を表明したが、3月21日の特攻で部下とともに出撃、散華された。

第三回の出撃から戦果が出始めるが朝日新聞の紙面には
「ロケット彈に乗って敵艦船群へ體當り」
「1發轟沈神雷特攻隊」
「翼下から飛び出す皇軍獨特の新兵器」
と勇ましい見出しが並び、桜花の概要と、これまでの神雷桜花作戦戦死者321名の布告と、第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃時の三橋大尉らの写真も大きく掲載された


本土決戦用のカタパルト発射の桜花の基地が琵琶湖と千葉にあったことがわかっている。
琵琶湖

千葉



湯野川守正氏(桜花要員)は、桜花の悲報を受けても隊員たちの士気は旺盛だった、編成当初は悩みもあったが、張りきって立派にやっていた、最善を尽くして死ぬのは本望で淡々と順番を待ち生き死にを深刻に考えず人に後ろ指をさされないように、一人でも多くの敵をやっつけると考えていたという。




桜の花弁が舞うようにあまりにも呆気ない最期を
深刻に考えないなど、今この世に生きる者には到底理解など出来るはずはない。

要員で生き残った湯野川氏達戦友会の人だけがあの一瞬を共有することができたのであろう。

どんな気持ちで植樹して、どんな事を思い桜の花を見ているのか。いくら想像を働かせても判る筈のない英霊と戦友の思い。

その思いを共有出来ない、第三者的視線で結果論として勝てないと解って居ながら特攻を行った事自体ナンセンスで責任者、司令部は何故やらせたか、と責任を全て押し付け、美化するなとする偽善は簡単である。

靖国の桜が今年も満開となる、また今年も戦没英霊がその花弁一つ一つに集まっている。英霊がいたから今がある。この事実だけは桜の花同様誰も否定出来ない。

そんな思いで満開の桜の美しさが拝める事に感謝

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