天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

酒井シヅ

2020-04-18 10:12:00 | まとめ・資料
酒井シヅ
医学博士
日本医史学会理事長。順天堂大学名誉教授。


   
伝染病の歴史-疫病から感染症に


医学の歴史は疫病との戦いの歴史でもある。我が国の伝染病の歴史は有史前にさかのぼることができる。
日本の疫病史に関して富士川瀞「日本疾病史』や山崎佐の「日本疫史及防疫史』などの名著があり、その後も、内外 の伝染病史に関する著作が多く出ている。

今回はそれらを参考に、有史前からの伝染病について、名称の変化、伝染病の広がり方、人々の伝染病への見方の変化、伝染病患者と社会との関わり方の推移、時代とともに変化した伝染病の概念などを明らかにして、我が国の伝染病 史ならびに概念の特質について検討したい。

我が国の伝染病史は、縄文遺跡に現れた結核や寄生虫症に始まるが、有史以後は「日本書紀」の崇神天皇五年に全国 各地で疫病の大流行があった記事がもっとも古い記録である。そのあと、疫疾の記録は後を絶たないが、人から人へ伝 染する疫病のほかに、マラリアのように中間宿主を介して伝染する疫病の記録もある。さらに時代が下ると、海外との 交流で新たな伝染病が現れた。また、近代になり、伝染病の本態が科学的に明らかになって伝染病史は新たな様相を見 せるようになった。

疫病の呼称は時代によって異なった。記紀には「えやみ」あるいは「えのやまい」とある。

『菱注和名類従抄』には「疫」説文云、疫
役、衣夜美、一云度岐之介とある。狩谷被斎は注に、「崇神紀、敏達紀の疫疾、欽明紀の疫はすべて衣也三と訓ず。衣夜美は民が皆、これを疾むから民が皆赴く役と同じように発音する。」

衣夜美は少し時代が下り、平安時代になると、癌あるいは瘡病と呼んだ。『和名類従抄」には「瘤」について「説文にあしきやまひ 云う、音は例、阿之岐夜万比」とある。
また「瘡病」の項には「説文云、瘡、音は虐、俗に言う衣夜美、一に云う和良わやみ 波夜美」とある。狩谷は、瘡は『源氏物語」や「萬安方」で「わらわやみ」と訓ずるが、それはこの病が軽重の違いが
あっても一国みなこの病に罹るからであると注解する。 全国に広がる疫病あるいは虐病の原因は一国に責任ある天皇の失政であったり、疫鬼、天候不順であった。 さらに時代が下ると、疫病の呼称に代わって痘瘡、赤痢、麻疹のように個々の流行病の記録が出てくる。但し、それぞれの名称は時代によって変化した。

疫病に変って「伝染病」が使われるようになるのは幕末である。人から人へ伝染することをはっきり示した名称であ る。この見方を日本で最初に言ったのは甲斐の橋本伯寿であった。西洋医学書に先んじていた。
しかし、西洋医学の導入と一致して、「伝染病」の呼称が一般に使われ、伝染病の感染経路を明らかにすることが重要 な課題となった。

明治になると「伝染病予防法」が制定され、伝染病は疫病とまた違った意味で人々から怖れられた。徽菌の呼称とと もに巷間に広まった。
なお、明治には新語であった伝染病も昭和になると、手あかじみてきた。特に、戦後、抗生物質によって伝染病が苦 労少なく治る病気となってから、いまさら伝染病でもないと、一九六○年代に伝染病学会は伝染病に代わって「感染症」 を採用した。
一九九四年には伝染病予防法が廃止され、「感染症の予防および感染症の患者に対する医療に関する法律」(通称感染症 新法)が制定された。なお、一時、医学教育の中で、感染症の講義数が著しく減少したことがあった。

その後、エイズが発生し、院内感染や再興感染症が社会問題になって、感染症の講義が重視されるようになった。 疫病には痘瘡のように、国内で発生を繰り返してきた疫病もあるが、新しい疫病は海外から入ってきた。古代から近 世に至るまで、海外との接触がもっとも多かった九州では、この土地を皮切りにはじまった伝染病の大流行がいくつも ある。その最たるものが梅毒とコレラであった。しかし、交通手段が発達し海外との接触が多様化した現代では、全国
のどこにいても珍しい伝染病にかかりうる。 疫病に対する戦いは古代から真剣であった。疫神を祀り、大がかりな祈祷を行った。平時にも鎖花祭など祭りを行い、
神の心を慰撫した。子供の成長を祝う通過儀礼も盛大に行った。その経過をへて、種痘のように経験的に知った合理的 な防疫法が予防手段として確立していったが、疫病が伝染病となり、感染経路が明らかになったとき、患者の隔離が社 会防衛のために最善の手段であると認識された。

明治以後、コレラ流行時に全国的に避病院が設置され、伝染病への隔離対策がとられた。その後、避病院における絶 対隔離が続き、らい予防法が制定されると、当初、放浪するらい患者の収容が目的であった収容施設が隔離施設となり、 さらに絶対隔離が実施された。それが人権問題という認識にいたるまで長い時間を要した。

感染症新法が伝染病予防法ともっとも違う点のひとつは絶対隔離をやめて、人権を考慮した点である。 

(順天堂大学医学部医史学研究室)

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