天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

新靖國論

2014-09-24 19:03:57 | 歴史
はじめに

昭和天皇実録が24年の歳月をかけて宮内庁から発表されました。

12000頁にも渡る記録を国民なら誰でも見ることが出来ます。

9月9日から10月30日までの
月曜日、金曜日を除く
予約制で一回50分です。

いかがですか?

やはり、読むと言うよりも見る感じですね。専門家やマニアでない限りは

自分で読むのでなく
新聞各社の専門チームが纏めたものを

新聞を通して読むか
歴史家や教授陣の感想で済ませてしまうのでしょう。

ですから各社のカラーが如実に反映されるし、教授陣によってバイアスが掛けられる

それを覚悟のうえで私達はこの実録を見る必要があるのです。

新靖國論では靖國と先帝陛下
を中心に、それを取り巻く侍従、宮内庁の人間模様から
靖國を考えたいと思います。

今でも宮内庁を先頭に寄って集って攻撃される松平宮司に関して今回は極力触れずにおきます。


◆日本経済新聞

日経と靖國、一見すると別世界の両者が、あるメモによって対立関係となります。

2006年7月に日経は宮内庁長官富田氏のメモを公表しました。

所謂A級戦犯の靖國合祀に対する陛下の不快感を報じた
のです。


※左下にある
そうですがが多い、おそらく陛下であれば
ですます調でなく
『そうだが』となるでしょう


日経新聞は、昭和天皇の靖国神社御親拝でいわゆる「富田メモ」に関して、

「昭和天皇実録」の記述に基づかず、日経新聞の一方的な解釈に基づいて

「A級戦犯合祀が理由」との捏造記事を報じたのです。

昭和天皇実録は陛下の動静を記述する依拠史料として

富田メモを約180回にわたり引用

87年は65回、88年も51回と多用しており、史料としての価値を認めています。

このことは実録が富田メモの信頼度を高めているのでなく

富田メモから実録が作られていることがわかります。

つまり、当初のスクープどおりの解釈をそのまま変えず

実録に採用されたことだけで
メモ自体に箔がつき

御親拝中断の理由にまで勝手に確定してしまっています。



◆ここで靖國を時系列で見ていただきたく、簡単な年表を書きます。

680(白鳳9年)日本書紀の条には「宮内最古卿」「宮内官大夫」の官職が記述

1934(9)から入江相政侍従

1936(11)から徳川義寛
侍従

1946(21)1/1陛下の所謂
『人間宣言』
1946(21)1/25靖国神社第 五代宮司 筑波藤麿

1947(22)5/3日本国憲法施行とともに、宮内省から宮内府へ縮小

1949(24)6/1宮内府は宮内庁へ

1952(27)4/28サンフラン シスコ平和条約
1952(27)5/1戦犯から殉難 者

1956(31)厚生省引揚援護局から、都道府県に対し靖国神社合祀の事務に対する協力
(昭和61)まで続けられていた
1959(34)所謂BC級戦犯の合祀
1963(38)全国戦没者追悼式
1965(40)7月筑波宮司鎮霊社を建立

1970(45)靖国神社の崇敬者総代会でA級戦犯の合祀が決定

1971(46)「合祀事務」や
「祭神名票」など不適切な用語が用いられていたとして廃止

1975(50)8/15三木首相
私的参拝

1975(50)11/21先帝陛下最後の御親拝

1978(53)3/20筑波宮司死去
1978(53)5/26宮内庁富田長官就任
1978(53)7/1松平第6代宮司に就任
1978(53)9/前 上奏名簿提出
1978(53)10/17靖國へ所謂
戦犯合祀

1979(54)4/19朝日合祀報道
入江侍従長『いやになっちまう』発言

1985(60)8/7朝日新聞批判
1985(60)8/10中国不快感
1985(60)8/14中国靖国批判
1985(60)8/15中曽根首相公式参拝
1985(60)政教分離原則に反する不適切な通知だった、と当時の厚生大臣が国会で答弁

1988(63)4/13徳川侍従長退任
1988(63)4/25陛下記者会見体調優れない
1988(63)4/26徳川侍従参与就任
1988(63)4/28富田メモ書かれる
1988(63)4/29最後の天皇誕生日
1988(63)6/14富田長官
退任
1988(63)8/15全国戦没者追悼式に最後のご臨席
1989(元)1/7午前6時33分昭和天皇崩御

1992(4)3/松平宮司退任
1992(4)高等裁判所判決で政教分離原則に反する公式参拝で違憲

2006(13)7/富田メモ公開

2014(26)9/9昭和天皇実録
日経、合祀に不快感で御親拝中断とまた発表。

以上年表で見ればかなり分かりやすく問題点や宮内庁、靖國、両者間の関係性までが浮き彫りになります。

要約すれば、天皇陛下、宮内庁、靖國、は終戦により『解体』に近いダメージを負い

それはGHQによって絶妙なパワーバランスでつまり、『生かさぬよう殺さぬよう』に

仕組まれ、監視役としてマスコミを付けられた状態で

国民の心の中枢を復活させまいという戦勝国の恐怖心の強さを思い知ることができるのです。

◆富田朝彦

警視庁副総監、内閣調査室長を経て、
1974(49)11/26宮内庁次長

1978(53)宮内庁長官に就任しました。

〈富田メモ〉

富田メモ研究委員会による最終報告
富田メモ(日記・手帳)について、日本経済新聞社は社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設置した。委員は次のとおり。

御厨貴(東京大学教授)
秦郁彦(現代史家)
保阪正康(作家)
熊田淳美(元国立国会図書館副館長)
安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)
富田知子(特別委員・富田朝彦夫人)

同委員会は2006年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証し

2007年4月30日に最終報告をまとめた(以下、「」内は同記事よりの引用)。

それによると、「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。
特に2006年7月、日本経済新聞が報じたA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。
また昭和天皇が靖国参拝に対し、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」(1988年5月20日)と書いた部分も発見され、同委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と判断した。
なお今回の検証の結果、戦犯問題や歴史問題、政治外交問題、社会的な出来事など、「富田メモ」として報道された部分以外にも、さまざまな事柄に関する天皇の発言を記した記述が数多く見つかった。
最終的に富田メモは、富田家が公的機関への寄託などを検討している。

◆筑波藤麿

筑波宮司の言葉を紹介している。

B、C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者なので後回しだ。自分が生きてるうちは合祀はないだろう。

また、長男は「父からは天皇の気持ちについては聞いたことはない」とも語っていたと報じた
(「後回し」の理由については「宮内庁の関係だ」と筑波がはっきりと言ったと元靖国神社広報課長の馬場久夫は証言している。

馬場は「当時は何のことだか分からなかったが、『天皇のお気持ち』の意味だと考えると、なるほどと思う」とも話している

以上が富田メモによる知識人と呼ばれる意見の対立が起きない程のバラバラな分野からの見方です。

不明確な家族や〈敵〉の立場の証言を都合よく取り入れ
利用し、曲解している。



次に宮内庁よりも陛下に近い立場の侍従の方々です。

◆徳川義寛

侍従長の遺言 昭和天皇との50年 』
 この本の中で、徳川氏は靖国神社とA級戦犯合祀について、こう述べています。
 
《 靖国神社の合祀者名簿は、いつもは10月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、1978(53)年

は遅れて11月に出して来た。 「 A級戦犯の14人を合祀した 」 と言う。

私は 「 一般にもわかって問題になるのではないか 」 と文句を言ったが、先方は
「 遺族にしか知らせない 」
「 外には公にしませんから 」
と言っていた。

やはりなにかやましいところがあったのでしょう 》
 

徳川氏は、A級戦犯合祀に 「 文句を言った 」
また記憶違いでは済まされない日にちの『嘘』までついいるのです。

彼が明快に合祀反対派であったことが理解できます

さらに、
 《 A級戦犯はその10年くらい前に厚生省から 「 戦争による公務死亡者 」 として名前が靖国神社に届き、

神社では昭和45年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、

「 合祀の時期は宮司に任せる 」 ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。

ところが宮司が筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった。

筑波さんは山階宮の系統で旧皇族の方でしたが、松平さんは元軍人で、自衛隊にもいた人でしたね 》

富田メモと同様、筑波宮司を評価し、そのあとの松平宮司に徳川氏は批判的なのである。

そして、その言葉は、“松岡洋右への批判”に続いている。

《 私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、

松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、

と言ったんです。 ( 略 )靖国神社には、軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。

しかし松岡さんはおかしい。 松岡さんは病院で亡くなったんですから 》

《 靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、

国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。

筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ 》

つまり、徳川氏の“生の声”は、富田メモの内容にそっくりなのです。

これほど徳川氏がA級戦犯や軍人に批判的だったのには、それなりに理由があります。

私的ルサンチマンか?

天皇の終戦詔勅を録音した 「 玉音盤 」 の存在を察知した近衛兵がこれを奪取しようと皇居になだれ込んできた時、

若かりし徳川氏は、顔が腫れ上がるほど殴られ、玉音盤の在り処を明かすよう迫られています。

しかし、徳川氏はそれでも口を割らなかった。 昭和63年4月12日に侍従長を退任する際の記者会見で、徳川氏はこう語っています。

「 10年ぐらい経ってから、私を殴った近衛兵が茶釜を持って謝りに来たことがありました。

しかし、まだその茶釜は使っていません …… 」

徳川氏の軍部に対する厳しい思いが窺える話です。
 
長男、義眞氏が
 
「 その茶釜は今でも家にありますよ。 今も使っていませんが ……。

たしかに父は、軍人が嫌いでした。 特に第二次大戦の頃は軍人が威張ってましたから。

祖父は軍人だったのですがね。 祖父の時代の軍人と大戦の頃の軍人は違っていたのかもしれません …… 」
 
徳川氏の所謂A級戦犯、あるいは軍人に対する思いが、

昭和天皇と異なっていたのは間違いありません。
 
「 昭和天皇は、軍人のことを“股肱の臣”と、ことのほか親しく感じておられました。それはさまざまな文献にも出ています。
昭和天皇ご自身が昭和20年までは大元帥で軍人であられたのですから、当然ですが …… 」
( 中西輝政・京都大学教授 )
 
富田メモの発言主が天皇陛下ではなく、徳川氏であれば、何の矛盾もないのです。
 
ほかにも、徳川氏であれば合点がいく点があります。
 
「 松平宮司の父親は宮内府の長官でしたから、侍従職にあった徳川さんは、父親の存在をよく知っていた、 ですから、親の心子知らずという表現は理解できる。

“筑波がよくやった”という言い方も、筑波官司は旧皇族でしたから徳川さんはよく知っていたと思いますので、これわかります 」
( 元宮内庁職員 )
 
問題は、このメモが書かれたとされる昭和63年4月28日です。

当時の宮内庁記者によると、
 「 8ヵ月後に崩御される陛下にとって、昭和63年4月29日は、最後の誕生日となりました。

その4日前の4月25日に陛下は記者会見され、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げています。

前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当お悪かったのです。

つまり、メモにある発言をしたのが陛下ではなく、徳川氏であってもおかしくはない、
いえ、徳川が濃厚なのです。


◆入江相政


1978(53)の侍従長は
入江相政 1934(9)から侍従
51年間
1969(44)~1985(60)
16年間の侍従長

徳川義寛1936(11)から
侍従 52年間
1985(60)~1988(63)
3年間の侍従長

入江日記より

1979(54)4/19(木)
「朝、園子さん来て下さる。朝刊に靖国神当時社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになっちまふ。直接、吹上げへ出る。お召しといふことで出たら昨夜、赤坂からお帰りの車中でうかゞつた「沖縄をアメリカに占領されることをお望みだった」といふ件の追加の仰せ。蒋介石が占領に加わらなかったので、ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ。同時にアメリカが占領して守ってくれなければ、沖縄ならず日本全土もどうなったかもしれぬとの仰せ。今日は御気分もよく迎賓館でも御立派。…」

以上からも分かるように入江侍従長は陛下のご様子は伝えてますが、

合祀に関しては正直に口にまでだしてしまうほど口が軽いのです。

捏造を図るタイプの人間ではないと感じます。

捏造であることは以前より明白であったのですが、

問題は
何故著名な歴史家や教授陣が

稚拙な捏造に加担して靖国神社を貶めるのか?

彼らを擁護してしまうかもしれませが、時間を掛けて真実を浸透させるため?

いえいえ、陛下と靖國を引き裂き国民を欺いているのですから

問答無用で打ち首をしても足りないぐらいなのです。




◆合祀

戦没者の靖国神社合祀に関連して、
1956年(昭和31年)遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局から

都道府県に対して靖国神社合祀の事務に対する協力について通知が行われた。

後にこの通知は、
1971年(昭和46年)に

「合祀事務」や「祭神名票」など不適切な用語が用いられていたとして廃止された。

その後、遺族援護事務としての一般的調査回答業務とした形で

1986年(昭和61年)まで続けられていた。

なお、1985年(昭和60年)
には政教分離原則に反する不適切な通知だった、と当時の厚生大臣が国会で答弁している。

この引揚援護局からの通知に基づいた祭神名票
(戦没者身分等調査票)は、

靖国神社側が合祀を判断するため、戦没者あるいは一定の合祀資格条件に該当する者かどうかなど、

照会があって調査作成されていたものである。

合祀予定者の調査を靖国神社ではなく行政府が行っていたという経緯から、

「合祀は日本政府の指示によるものではないか」
という意見もある。

しかし、政府の出した名簿が全て合祀された訳ではなく、

2002年(平成14年)7月の国会答弁では「国として靖国神社の行う合祀には関わりを持っていない」事が確認されている。

靖国神社の照会により引揚援護局が作成した祭神名票には、

改正された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法改正」の支給根拠である「戦犯は国内法で裁かれた者ではない」という解釈から、

東京裁判における戦犯も除外なく記載されている。

靖国神社では1959年
(昭和34年)にBC級戦犯を合祀した。

A級戦犯については合祀のための照会をしていなかった。

だが、1965年(昭和40年)
に厚生省に戦犯を含む資料の送付を依頼。

翌1966年(昭和41年)厚生省引揚援護局調査課長が「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」の通知に基づき祭神名票を送付。

1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会でA級戦犯の合祀が決定された。

ただし、当時の宮司預かりとなり、合祀はされていなかった。

1978年(昭和53年)になって新宮司が就任。A級戦犯の受刑者を「昭和殉難者」と称して合祀した。

また、靖国神社は、東京裁判の有効性や侵略の事実を否定するなど、

「A級戦犯は戦争犯罪者ではない」として名誉回復の方針を見解として打ち出している。

A級戦犯合祀問題の背景には、靖国神社などによる

「A級戦犯は戦勝国による犠牲者」とする意見と、侵略戦争を認めた政府見解や、国民への多大な犠牲などから「侵略・亡国戦争の責任者である」

と一般の犠牲者である軍人・軍属などと一緒に祀り、顕彰することを問題視する意見の対立があると思われる。

1963年(昭和38年)以降、8月15日に開かれている政府主催の全国戦没者追悼式の戦没者の対象にA級戦犯も含まれているが、

問題視されていない。

全国戦没者追悼式は追悼であり、靖国神社は顕彰しているという理由からである。

また、自決・戦死による祭神の中にも戦争責任者とみなされる人物は存在するが

(支那事変開始時の陸相で太平洋戦争開戦当時の参謀総長である杉山元、

満洲事変当時の関東軍司令官である本庄繁、

支那事変開始時の海軍次官で太平洋戦争開戦当時の連合艦隊司令長官山本五十六など)

現在のところ問題とはされていません。

合祀手順に何ら抜かりがあるわけでもなく、徳川氏の『嘘』は自らを貶めることとなってしまったのです。

◆顕彰の意味

個人の著名でない功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめること

このことが8/15靖國と全国戦没者追悼式の只一点違うとこなのです。

今まで散々合祀路線で押してきたのですが、新しい物に乗り換えようとの

動きが小林よしのり氏を中心に動き始めました。

靖國は顕彰施設であることを忘れているのでないかと

完全で典型的な左翼の話のズラシのテクニックです。

パターンとしては慰安婦問題のように、捏造に捏造を重ねて全てを立証、

つまりバレた頃には本質をズラして人権問題にする。

靖國も同じように合祀を棚上げして、不本意に合祀されれば陛下の不快感を捏造し

それがバレそうになれば
顕彰の問題でズラスのです。

確かに靖国神社としては短な明治からの歴史において

顕彰、慰霊、鎮魂の三つは切り離すことの出来ないもなのです。

明治の創建当初の思いをそのままにしたいという靖国神社としてのウイークポイントを
突いてくるのです。

遺族も年々少なくなり、国民が先人に感謝する心を持ち

戦争のない恒久平和を求めるのであれば、靖國は顕彰する事を易々と捨て

平和、慰霊、鎮魂にスタイルを変えても国民は決して批判的にはならないと思うのですが?

◆参拝
メモには「だから私あれ以来参拝していない、それがわたしの心だ」

とあるが陛下は「参拝」
などと使われない。

ましてや「行幸」でもない。

もしも、仰るのであれば
それ以来『御拝』または『親拝』してない、となるはずである。

それは明治より御拝か親拝が正しいのである。

天皇「親拝」のときは、大臣以下供奉の全員はすべて本殿の廊下にとどまり、

天皇は侍従長だけを随えて本殿の御座につき、「御拝」をするという。

天皇の玉串は、宮司がこれを侍従長に捧呈し、侍従長はそれを天皇に奉り、

天皇はその玉串を暫し手にしてもっとも鄭重な「御拝」をする。

相当に長い時間の「御拝」であるという。

そののち、玉串を侍従長に手渡し、侍従長はそれを捧げて宮司に手交し、

宮司はそれを頂戴して階段を上り、神前に捧げる。


◆おわりに

今回の新靖國論は個人的な考えではなく、事実の歴史の流れを捉えて

靖國を俯瞰で見てまいりました、最後の全国戦没者追悼式に臨席なされた陛下のお写真

から(宝算87)の長きに渡り日本と日本国民の為だけに
その生涯を捧げられたお姿

涙なくしては拝見できません

八百万の神を理解出来る筈もない占領政策によって引き裂かれた天皇陛下と靖国神社

何を国民に伝えようとしているのか?

この日本は独立していると胸を張って言えるのでしょうか

国連の敵国条項に未だにのっている日本


『嘘をつくと御天道様が見てるよ!』という時代は終戦とと人間宣言で消え去ったのでしょうか

日本人の道徳心やアイデンティティまでもが破壊しつくされてしまったのでしょうか

今の日本にとって一番大事なこと、


天皇陛下の靖國神社御親拝の
復活だと思いませんか?

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