2月に一度訪ねたルルドの洞窟にある氷柱
2月の暖かい日でも融けずに残った氷柱が剣のように3本に
融けて傾いた氷柱が、淡い光を放っています
1910年(明治43年)春、雪の深い丸山でジェラル・プーリエ師が遭難
幸い一命をとりとめ、入院中にこの丸山にルルドの洞窟建設を計画し、翌年落成されました
明治30年、日本にトラピスト修道院が創立されるのを知り志願して、日本に来る。横浜から函館を経由して当別に到着する。
プーリエは修院長就任と同時に日本人になろうと決心する。日本人の信者は4人しかいなかったがそのうちの一人、大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。
やせ地の開拓、働いては祈り、祈っては働くの毎日だったが7年後には周囲一帯を、えん麦、ジャガイモ、トウモロコシ、牧草などの畑地に変える。過労から2人が死に、病に倒れた者もいた。
重罪人とまで噂する地元の人たちは、院内の作物を荒らし、牧草の山に火を放ったことさえあった。
普理衛は母国の神学校で哲学、物理、化学を修め、しかも農業に対する知識も豊かだったが、同院での成功は知識よりもその性格によるものといわれている。喜怒哀楽は表面に出さないが、質実剛健、行動力は盛んであった。
創立間もなく和牛を飼ったが、思うように育たず失敗。明治35年には故郷からホルスタイン5頭を買い入れ、数年後、再び5頭を輸入する。道庁もようやくその熱意を感じ、この時1頭に付き50円の助成金が出た。
そしてこれらの牛をもとに36年からバターの製造を始めたため、酪農は道南一帯に広まる。酪農の成功は入院者の増加をも促し、前途を明るくした。その後さらにコンデンスクリーム、スキムミルク、チーズなどにも手をつけ、トラピストの名は朝鮮、上海まで伝えられるようになった。
トラピスト修道院は、厳律シトー会の修道院
ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」を尊ぶ
多様性という言葉を簡単に使う人に聞かせたい言葉ですね
丸山の展望台から見えるトラピスト修道院
津軽海峡の水平線に淡い光が広がっていました