風薫る5月、各地有名神社の流鏑馬神事が催行される季節になった。ユーチューブに映像が多数投稿されている。海外でも流鏑馬の人気は高いそうだ。洵に華麗で勇ましい。
鎌倉時代には武士の武芸として、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)が騎射三物(きしゃみつもの)と呼ばれ、奨励されていたという。因みに北条時宗は、笠懸の名手であったらしい。
だがこれらの騎射神事は、平安時代以前からあったものとは思われない。日本での合戦には、疾走騎射という戦術は用いられなかった。
日本の騎馬武者は兵でなく将で、騎乗は闘うためより兵卒を指揮するためのもの、弓は専ら停止した馬上から射た。
1274年〜1281年の元寇(文永・弘安の役)では、北条時宗率いる鎌倉幕府軍が、異民族の元軍と初めて干戈を交え、手痛い損害を被った。
私は渡海攻撃して来た元軍の本隊に、蒙古の騎兵が馬(馬体が小柄)と共に乗船していて、上陸作戦に参加していたのではないかと思っている。
九州御家人から成る防衛軍を、彼ら蒙古騎兵は、得意の疾走騎射で苦しめたと推測できる。時宗が戦役後、殊のほか疾走騎射の笠懸に熱中したことは、その戦技に格別の関心があったからだと見てよいと思う。
したがって、騎射三物は、元寇以後に武士たちに採用された、蒙古軍の戦技修得のための訓練だったと考えてよいのではないか?
流鏑馬の騎射における矢先と的までの距離は短く、約4m前後かと思われる。実戦では射手に危険が及ぶ距離だ。流鏑馬は、実戦の疾走騎射を型式化し、神に奉納する演武として神事に高められたものだろう。
そもそも日本の歴史では、実戦で疾走騎射が用いられたことはない。ならば流鏑馬の疾走騎射の原型はどこにあったかというと、私見では、元寇における高麗・宋の歩兵部隊が主力の元軍の中に、少数ながら本隊ともいうべき蒙古人の騎兵部隊が居て、戦場を縦横無尽に駆け巡り、将卒問わず防衛軍に弓射の攻撃を加えたと推測している。
それまで、停止した馬上からの弓射しか体験していない武士とその護衛の馬周り歩兵からなる鎌倉軍団は、緒戦で元の騎兵に完膚なきまでの敗北を喫したと想像される。御家人から成る鎌倉武士団の面々は、初めて目の当たりににする敵の疾走騎射に瞠目し、戦慄したに違いない。
その時の衝撃が、武士たちを疾走騎射の鍛錬に奔らせたと見ている。詳しくは、当ブログ記事【流鏑馬の謎】をご参照いただきたい。
神事の流鏑馬は演武であって、実戦の演習ではない。
先ず第一に、平坦な走路というものは一般の戦場には無い。平原であっても、地形的には凹凸や岩石・植生、段差に満ちた、障害物だらけの不整地が戦場の常である。
第二に、矢先と的との距離が数mと近すぎる。敵兵に狙いをつけ矢を射る前に、射程内に居る他の敵兵に槍で突かれるか矢で射られるだろう。
第三に、和(長)弓は射手の真横から前後30度ぐらい、60度の範囲しか射れない。蒙古騎兵の短弓は、右利きなら死角は右側方の約120度のみ、有効射撃範囲は約240度にも及ぶ。
笠懸、犬追物にしても、やはり演武の域を出ない。
騎乗して歩兵を射るのに、長弓の取り回しの悪さは決定的に不利である。蒙古騎兵の短弓なら、歩兵相手の戦闘でも自在性が高く威力を発揮する。
流鏑馬は、疾走騎射の演武であって、実戦の模擬である戦技には程遠い。その点でも、日本では歴史的に疾走騎射が戦術として存在しなかったことが分かる。
流鏑馬神事での人馬の装束の華麗さと演武に、魅せられれば魅せられるほど、私たちの国の実戦での疾走騎射戦は、現実から遠ざかる。その後の国内の合戦で、疾走騎射が試みられたことがあったかどうか?
元の滅亡による脅威の消滅で、疾走騎射の必要が無くなると、武士たちはすぐに鍛錬を止め、以後騎射三物は武芸から退場する。元々遊牧騎馬の民族でないから、疾走騎射は得意で無かったのかもしれない。
演武を神社に奉納することで、難敵退散を祈る時代に世は遷り変わったのである。
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